カープ投手王国の中心選手として5度のリーグ優勝に貢献した左腕・大野豊氏。1982年から10年間、5歳下の津田氏と共にカープ投手陣を支えてきた。1991年、津田氏とのダブルストッパー構想がある中で津田氏は病に倒れた。「可愛い弟分」である大事な後輩との忘れられないエピソードを語ってもらった(全2回/第1回)
◆いつまでも笑顔の津田のまま
津田が若くしてこの世を去って30年以上も経ったか……というのが率直な気持ちです。彼が健在であれば64歳になりますね。
普段の津田はイジられても笑って返してくれて、本当に怒った姿を見たことがありません。何を言われても笑って答えるというようなイメージです。私からすれば亡くなってもう32年も経った中で、生きていたらどういう姿になっていたのかなと思う反面、いつまでたっても当時の津田のあの笑顔しか頭にないですね。
津田は5歳下の後輩ですが、本当に可愛い弟分でした。普段はひょうきんで、温厚な性格で、本当にプロ野球選手なのか? というくらいの男でした。彼の山口県訛りなのか、いつも「大野しゃん、大野しゃん」と私を呼んでいて、どこか憎めないところがありました(笑)。
ですが、グラウンドに出てマウンドに上がった時の闘争心は本当にすごかったです。オンとオフの切り替えです。ここは私も見習うべき姿勢でした。練習はいつもコツコツと真面目に取り組んでいましたが、1984年、彼は右手の血行障害という故障に苦しんでいました。当時、指を冷やさないように手袋をして、黙々とランニングをしていた姿が印象に残っています。
1986年に彼は抑えに転向しましたが、ファンのみなさんもご存知の通り、マウンドに上がれば闘争心むき出しで、投げっぷりの良さがありました。サインに首を振れば相手も味方もストレートと分かるくらいでしたが、本当にストレートにこだわりがあったのでしょう。「ストレートを活かすために変化球をもうちょっと投げてみたらどうか」という事を言ったことはありましたが、とにかくストレート勝負。それで抑えるわけですから、私には真似のできないスタイルでした。多くの投手のストレートを見てきましたが、一言で言えば『分かっていても打てないストレート』です。そして『球に全ての力を伝える剛腕』という言葉がぴったりの投手でした。