不思議な力が後押しした1991年

 数々の思い出がありますが、強烈に覚えているのが1991年です。あのシーズン当初、山本浩二監督の中で私と津田のダブルストッパー構想がありました。ですが、4月の巨人戦(14日・旧広島市民球場)で津田がリリーフで打たれ、直後に私がマウンドを引き継ぎました。結果的にあの登板が津田にとって現役最後になりました。

 津田はその後、悪性の脳腫瘍が見つかったという事でチームを離れたわけですが、私は1人でストッパーとして投げ続ける事になりました。チームは優勝できたシーズンでしたが、津田が病気で離脱したことで『みんなで一丸となって頑張ろう。津田のために頑張ろう』という、本当に特別な1年でした。22年間現役生活を過ごしてきましたが、1991年に関しては自分だけの力ではない、不思議な力が働いていたように思います。

 あのシーズン、優勝できたことは良かったですが、私としては『津田と2人で投げて優勝できれば……それで最高の年になるな』というイメージがありました。とにかく1991年は津田の分まで頑張らなければいけない。そういう思いが強かったです。彼は投げたくても投げれない状況の中で、私たちはやれる体、投げられる体であるならば、しっかり投げなければならないという気持ちでした

(後編へ続く)