1993年の創刊以来、カープ、サンフレッチェを中心に「広島のアスリートたちの今」を伝えてきた『広島アスリートマガジン』は、2025年12月をもって休刊いたします。32年間の歴史を改めて振り返るべく、バックナンバーの中から、編集部が選ぶ“今、改めて読みたい”記事をセレクト。時代を超えて響く言葉や視点をお届けします。

 第5回目の特集は、広島アスリートマガジン創刊初期の企画から、人気の高かったインタビューをセレクション。

 長年にわたり広島東洋カープの未来を支えてきたスカウトに獲得秘話を聞いた、広島アスリートマガジン創刊当時の連載「コイが生まれた日」。かつてのカープドラフトの裏側にあったエピソードを、元スカウトの故・備前喜夫氏の言葉で振り返る。

 今回は、1999年ドラフト5位で入団した左腕・佐竹健太の入団秘話をお送りする。入団当初から貴重な中継ぎ左腕として頭角を現した佐竹は、2005年には50試合に登板するなど、ワンポイントリリーフとして活躍。ブルペンを支えた左腕入団の裏側を振り返る。(広島アスリートマガジン2004年連載『コイが生まれた日』を再編集)

現役引退後は、2017〜2020年までカープの打撃投手を務めた佐竹

◆実戦派の投手として期待された

 佐竹は福岡県の中学校から、広陵高に入学しました。白濱と同じように「野球留学」という形です。

 2年上には福原忍(東洋大→阪神)、二岡智宏(近大→巨人)がいましたが、佐竹は入学したその頃は大型左腕として評判が高かったそうです。ただ彼は、結局、高校時代の3年間は甲子園を経験していません。我々スカウトの間でも、特に話に上るほど目立った投手ではありませんでした。

 彼は高校から大学を経由せずに直接NKKに進みますが、決してエースというわけではありませんでした。当時からNKKは社会人野球で全国的にも強豪のチームだけに、他にもエース級の投手を多く擁していたのです。よって、都市対抗野球や社会人日本選手権などの大きな大会で先発していたという印象はありません。『要所でリリーフとして登板する投手』という存在ではなかったかと思います。

 佐竹に注目したのは、当時中四国地区担当のスカウトを務めていた佐伯和司です。

 佐伯自身も広陵高の出身という事もあって、佐竹の存在は入社して間もない頃から知っていたようです。特別にスピードがあるとか、変化球の切れがすごいとかいうわけではなかったようですが、左腕特有であるクロスファイヤー気味のストレート、あるいはカーブを持っていて、実戦派の投手であるという評価を、私は佐伯から聞いていました。

 佐竹の獲得を決めた背景には、当時のカープが深刻な左腕不足に悩んでいた事があります。

 ドラフトで彼を指名した1999年シーズン、カープは登録した投手30名のうち左投手は高橋建、吉年滝徳、田中由基、菊地原毅と、移籍入団した山田喜久夫、入団テストを経てドラフト8位で指名した広池浩司の6名しかいませんでした。左投手は本来なら10名近くいるのが理想なだけに、当時のカープ投手陣では層の薄さは否めませんでした。

 この1999年秋のドラフトでは、カープは1位に競合覚悟で國學院久我山高の河内貴哉を指名する事を既に決めていました。そしてさらに中継ぎとして使える即戦力左腕の獲得も、このドラフトでは求められていたのです。

 即戦力であれば、社会人もしくは大学生という事になるので、佐伯の情報をもとに私は佐竹を実際に見る事にしました。スピード、変化球の切れ、コントロール、さらにフィールディングも含めたバランスが良いと感じたので「即戦力として必ず活躍するかどうかはわからないが、1〜2年ほどファームで鍛えれば、一軍でリリーフとして使えるだろう」と感じて採用することにしました。

 担当スカウトだった佐伯が指名直前の1999年秋にスカウトからコーチに転出するになったので、指名前の会社との交渉からは私が代わりに担当しました。NKKの監督さんなど関係者には「下位でよければ指名します」と話をして、了解を得ました。こうして11月19日のドラフト会議では5位で指名する事が出来ました。

 初めて会った佐竹の印象は、非常におとなしかったように思います。ただ挨拶もしっかりとできていたし、性格はとても良い子だなと感じました。 

■備前喜夫(びぜん・よしお)
1933年10月9日生〜2015年9月7日没。広島県出身。旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987~2002年はチーフスカウトを務めた。