各球団スカウトの情報収集の集大成であり、球団の方針による独自性も垣間見られるドラフト会議。カープはこれまで、数々の名スカウトたちが独自の眼力で多くの逸材を発掘してきた。

 ここでは、かつてカープのスカウトとして長年活躍してきた故・備前喜夫氏がカープレジェンドたちの獲得秘話を語っていた、広島アスリートマガジンの2003年創刊当時の連載『コイが生まれた日』を再編集して掲載する。

 今回はカープのエースとして低迷期を支え、メジャーでも実績を残すなど日米通算200勝を達成した黒田博樹氏の獲得秘話を紹介する。

2001~2005年に黒田投手が記録した完投数は実に47。エースとして低迷期のカープを支え続けた。

◆“おとなしかった”大学時代は、投げ急ぎで四球連発

 最初に彼の情報がウチの球団に入ったのは、専修大2年の秋だったように記憶しています。苑田(聡彦・現スカウト統括部長)から『すごく速い球を投げる投手』がいると聞いたので、神宮球場までリーグ戦を見に行ったんです。確かに球は速くて、フォームも申し分なかったのですが、当時の黒田は肝心なところで四球を連発して崩れるという悪い癖があったんです。実際私が初めて見た試合も制球が定まらず苦労していたことを覚えています。

 当時のドラフトではコントロールも変化球も良くてクレバーな投球術を持っている澤﨑(俊和・1996年ドラフト1位・現一軍投手コーチ)は即戦力でいけると思っていましたが、黒田の場合は「まあ2、3年後には…」というのが正直なところでした。

 直接彼に入団の話をしたのは、4年の春だったと思います。非常におとなしい子だな、というのが彼の第一印象ですね。話す声も小さかったし、あまりこちらと視線を合わせなかったり……。今ではテレビやラジオのインタビューでもハキハキと答えていますが、あの頃から考えたら信じられない話ではありますね。

 しかし黒田の場合お父さんも元プロ野球選手でしたし(黒田一博・元南海など)、昨年亡くなられたお母さんも体育の先生だったんです。スポーツ選手としての肉体面の素質はもちろん良いものをもっていましたが、アスリートとして大切な精神的なものもしっかりとご両親から教えられているという感じは確かにありました。

 プロ野球選手として過ごす年数が増えてきて佐々岡(真司・現一軍監督)に代わってエースだ、開幕投手だとか言われるようになってきましたし、ラジオでも取材でも堂々と受け答えするようになりましたけど、私の中で「おっ、だいぶ堂々としてきたな」と思ったのは、一軍に定着し始めた3年目くらいでしょうか。

 ちょうどそのあたりからフォークボールを覚えて、自慢の直球も生きてくるようになりましたね。大学時代に見せていた四球を出す癖は、投げ急ぎからくるものだったみたいですね。フォームに「ため」をつくる、つまりいったん止めるようにすることで安定感が増してきたんだと思います。

【備前喜夫】
1933年10月9日生-2015年9月7日没。広島県出身。旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987~2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。