各球団スカウトの情報収集の集大成であり、球団の方針による独自性も垣間見られるドラフト会議。カープはこれまで、数々の名スカウトたちが独自の眼力で多くの逸材を発掘してきた。

 ここでは、かつてカープのスカウトとして長年活躍してきた故・備前喜夫氏がカープレジェンドたちの獲得秘話を語っていた、広島アスリートマガジン創刊当時の連載『コイが生まれた日』を再編集して掲載する。

 今回は、1993年ドラフト3位でカープに入団。今季から一軍打撃コーチを務めている朝山東洋の入団秘話をお送りする。

三拍子そろった外野手として入団しプロで10年間活躍した朝山東洋。引退後の2005年からはカープでコーチを務めチームを支えている。

◆山本浩二2世と言える逸材。怪我がなければレギュラーを奪う可能性は十分ありました

 「東洋」という名前からして「カープに入るために生まれてきた」と言われたのが、1994年のドラフト3位で獲得した朝山です。久留米商高では甲子園出場はなりませんでしたが、走攻守三拍子揃った大型外野手として「東洋」の名前は九州では知られていました。

 当時九州担当だった村上スカウトは「山本浩二2世と言える逸材」と彼を非常に高く評価していました。「外野手だった同スカウトがそれだけ高い評価をしているのなら」という事で、指名に踏み切りました。高校時代の彼を私は直接見たわけではないのですが、ビデオ等で観た感想としては、見た目以上の実力を試合で発揮できる選手だと思いました。

 最も彼に驚かされたのは、入団交渉の時のことです。条件面などがほぼ合意に達し、「背番号は(空き番号の中から)何番にするか」という話になった時、彼は純粋に「自分はずっとセンターを守っていたので、8という数字には愛着があります。かつて4番センターとして活躍され、自分が尊敬している山本浩二さんが着けていた『8』が一番欲しい番号です」と言ったのです。

 入団時に「1ケタの背番号が欲しい」という高校生ルーキーは滅多にお目にかかれませんが、ましてや球団にとってその「8」は永久欠番なので、その希望はとても叶えられるはずはありません。私達スカウトは「それは無理な注文だ」と答えました。すると彼は「ならば山本浩二さんが監督時代に着けていた88番をください」と言ったのです。前年に山本監督が退団してからこの番号は空き番となっていたので、我々も了承しました。現役の日本人選手の場合、当時も今も最大で60番台が普通ですが、それよりもさらにひと際大きい、首脳陣並みの背番号をつけたルーキーがこうして誕生したのです。

 入団後の新聞や雑誌のインタビューで、彼は「入団交渉の時点で、背番号『8』が永久欠番だという事をはっきりと認識していなかった」と語っています。しかし「8番が欲しい」としっかりと言えるものおじしない性格は、やはりプロ向きだったのでしょう。

 朝山はプロ1年目からウエスタンリーグで39試合に出場し、144打数42安打、2本塁打16打点、打率2割9分2厘と素材の高さをアピールしました。そして背番号が「38」に変わった2年目の1996年、熊本・藤崎台球場でのジュニアオールスターゲームではホームランを放つなど活躍して、見事MVPに選ばれました。

 「浩二2世」「前田2世」と注目され始め、一軍も見えてきた4年目の1998年、彼に悲劇が起こります。この年、右ヒザの半月板を損傷。そして2002年までに右ヒザを2度、左ヒザを2度手術し、外側の半月板は両ヒザとも取り除いてしまいました。走攻守とも自信のあった朝山でしたが、この故障で一時は走る事すらできなくなってしまいました。

 しかし朝山は、何度も野球を続けられるかどうかの瀬戸際に立たされながらも、「背番号8が欲しい」と言った天真爛漫さや明るさを決して失う事はありませんでした。だからこそ、腐らずに辛抱する事ができたのではないでしょうか。もし彼に故障がなかったら、早いうちに外野の定位置を獲得していたかも知れません。金本(元広島・阪神)、緒方、前田という鉄壁の外野手陣にも食い込む可能性も十分あったのではないかと思っています。

【備前喜夫】
1933年10月9日生-2015年9月7日没。広島県出身。旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987~2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。

【朝山東洋】
1976年7月29日生、福岡県出身。久留米商高-広島(1995年ー2004年引退)。3拍子そろった外野手として1994年ドラフト3位でカープに入団。怪我に見舞われたプロ生活だったが、2000年には58試合に出場し5本塁打を放つ活躍を見せた。2004年限りで現役引退。引退後の2005年からカープで二軍、三軍のコーチを15年務め、数々の選手を一軍の主力に育てあげた。2020年からは一軍打撃コーチを務めている。