カープは現在、9名のスカウトが逸材を発掘するために全国を奔走している。そのスカウト陣をまとめているのが、苑田聡彦スカウト統括部長だ。苑田スカウトはかつて勝負強い打撃でカープで選手として活躍し、初優勝にも貢献。引退直後の1978年から現在までスカウトとして長年活動を続け、黒田博樹を筆頭に数々の逸材獲得に尽力してきた。

 この連載では、書籍『惚れる力 カープ一筋50年。苑田スカウトの仕事術』(著者・坂上俊次)を再編集し、苑田聡彦氏のスカウトとしての眼力、哲学に迫っていく。

 苑田スカウトの原道力になっているのは「野球が好き」という真摯な想い。そのスカウト魂を、廣瀬純から逆指名を得たエピソードと共に紹介する。

2000年に逆指名で入団した廣瀬純選手。2010年には3割・2桁本塁打を放ち、ゴールデン・グラブ賞を獲得する活躍をみせた。

◆ 逆指名制度のなかで気づいた野球愛 

 苑田は野球が大好きである。神宮球場で大学野球を2試合見て家路につく。帰宅してから、夕方にウォーキングをしていても少年野球やソフトボールを見ると、思わず足が止まる。

「仕事は好きじゃないとできませんよ。スカウトなら野球が好きじゃないと。それは今も言っています。白武(佳久)スカウト部長にしても、他のスカウトにしても野球が好きだというのはよく分かります」

 野球が好きだとあらためて実感した出来事があった。それは1993年に導入された逆指名制度(現在は廃止)。ドラフト上位選手は、希望球団に入ることができるという制度が施行されているときのことだった。

 もちろん、有望選手に各球団の視線は集中する。スカウトはその選手の『逆指名』をもらうことが大きなミッションとなる。そこには、金銭を含めた条件面も絡んでくる。毎日いくつもの球場に足を運び、いち早く『原石』を見つけ、誠意と熱意で選手をカープに導いてきた苑田の仕事のスタイルも一変することになる。

 苑田が担当したなかでは、2000年のドラフト2位で入団した東京六大学の三冠王である廣瀬純(法政大)が逆指名での入団だった。

「あのパワーと肩の強さ、しかも、野球を本当に楽しそうにやる。当時のカープに、ああいうパワーヒッターで素晴らしい肩の選手はいませんでした」

 それだけの素材である。4年生春のリーグ戦が終わる頃には、指名への流れはできていた。ただ、苑田には廣瀬の逆指名をもらうというミッションが課されることになる。苑田は、密着マークを行うことになった。毎日のように法政大のグラウンドに通った。故障して彼が練習できないときも通い詰めた。ベテランスカウトがグラウンドに通って、見たのは『散歩だけ』という日もあった。

 廣瀬に対する評価は不動だ。だから、チェック項目も何もあったものではない。「ケガをしていないな。よし、今日も元気だな」ポイントはそこだけであった。むしろ、胸のうちはさらに複雑であった。

「打席で打たない日のほうが嬉しかったです。他のチームの評価が上がる可能性があります。こちらの評価は変わらないわけですから、打たないほうが嬉しいという気持ちもありましたね」

 とにかく、任務は廣瀬の逆指名をもらうことである。そのための密着マークだ。しかし、苑田の本心は違うところにもあった。

「ひとりの選手をマークしていると、他の選手を見ることができません。廣瀬なら廣瀬しか見られないのです。私は野球をいっぱい見たい。いろんな選手を見たい。これが本心でした」

 逆指名制度下で密着マークはスカウトの宿命であった。後に前田健太を見出したベテランスカウト・宮本洋二郎も同じ苦労を味わった。特に、1998年のドラフトで阪神や巨人と争奪戦を繰り広げた、広島出身の二岡智宏への密着ぶりはすごかった。

「担当制にしている以上、自分が密着しないと」そんな責任感から、宮本は毎日のように近畿大のグラウンドに通った。それこそ、雨の日も風の日も関係なかった。二岡が全日本のメンバーに選出されたときは、遠征先のイタリアまで追った。

「あの飛行機嫌いの宮本さんが飛行機でイタリアですよ。やはり、熱心に練習や試合を見るしかないということです」

 結局、二岡は巨人を選んだ。当然、選手自身の選択である。異論をはさむ余地はない。逆指名とはそういうものなのである。

 「広島カープにお世話になります」

 法政大のスラッガー廣瀬から返事をもらったときは、嬉しかった。いや、「ホッとした」というのが正しいかもしれない。

 強肩、長打力、野球への姿勢。それだけではない、『親を大事にする。おじいちゃんも大事にする』全てが、苑田の好みの選手であった。

 逆指名制度の時代だからこそ、改めて『野球が好き』だと再確認した。

 神宮球場で大学野球を視察するとき苑田は、そのまま信濃町駅まで30分以上かけて歩くことがある。

「この前、草野球でしょうけれど素晴らしい投手がいましてね……」

 苑田の野球の話は尽きない。この目の輝きこそが、スカウトマンとしてのエネルギーであるに違いない。

●苑田聡彦 そのだ・としひこ
1945年2月23日生、福岡県出身。三池工高-広島(1964-1977)。三池工高時代には「中西太2世」の異名を持つ九州一の強打者として活躍し、1964年にカープに入団。入団当初は外野手としてプレーしていたが、1969年に内野手へのコンバートを経験。パンチ力ある打撃と堅実な守備を武器に1975年の初優勝にも貢献。1977年に現役引退すると、翌78年から東京在中のスカウトとして、球団史に名を残す数々の名選手を発掘してきた。現在もスカウト統括部長として、未来の赤ヘル戦士の発掘のため奔走している。