1975年の初優勝以来、カープ黄金期を築いたレジェンドOBたち。往年の名選手が、現役時代の思い出やカープへの熱い思いを語った『広島アスリートマガジン』連載記事を再編集してお届けする。

 1976年のプロ入りから現役引退まで、カープ一筋で腕を振り続けた北別府学氏。『精密機械』と称されるコントロールで球団史上初の200勝投手に輝いた名投手は、1994年、現役引退を発表した。選手晩年は右肘の故障に苦しんだ北別府氏が、引退を決めたその理由、そして最終戦を回顧する。(全8回/第7回)

通算成績は515試合213勝141敗、勝率.602。2012年には野球殿堂入りも果たした。

◆あと何年投げるかわからない私のために、他の投手に迷惑がかかる事はしたくなかった

 私は200勝を達成した後の後半戦を4勝4敗で終えて、最終成績はチームトップの14勝、セ・リーグ4位の防御率2.58をマークした。

 さすがに20代の頃のような球速やキレはなかったが、コントロールと投球術で打者を打ち取る事に成功していた。この頃は相手打者のフォームと読みを狂わせる事を意識して、右打者にはシュート、左打者にはスライダーといった相手の懐に食い込んでいくボールを駆使した内角攻めを多く使っていた。

 翌1993年も開幕投手として前年優勝のヤクルトに勝ち、4月を終わった時点で私は無傷の4連勝。またチームも開幕6連勝を飾るなど4月は11勝4敗と非常にいいスタートが切れた。

 ところが夏場にさしかかった頃、私の右ヒジが再び悲鳴をあげた。ヒジの軟骨が剥がれて関節の中を動き回る、いわゆる「ネズミ」という状態で、投球練習の途中でも電気がビリッと来たような痛みが走ったのだ。私は結局13試合しか登板できず6勝6敗、防御率5.22。チームは19年ぶりの最下位に沈み、山本浩二監督が辞任。後任に三村敏之二軍監督が昇格した。

 新体制で迎えた翌1994年。右ヒジの痛みは、昨年以上に頻繁に起こるようになっていた。昨年の段階で医師からは手術を勧められていたが、私は手術には踏み切らなかった。手術が成功したとしてもこの先あと何年投げられるのかと考えたら、手術とリハビリに長い期間と労力を費やす必要が感じられなかった。首脳陣は私が投げる時はローテーションを優先してくれるだろうが、あと何年投げるかわからない私のために、残りの先発投手達に迷惑がかかる事は絶対にしたくなかった。

 だから、徐々に勝負に対してあまりこだわらなくなっていった。こだわりも悔しさも感じなくなった、つまり闘争心がなくなってきた事に気づいた時、「これが野球を辞める潮時かな」という思いにかられた。