1975年の初優勝以来、カープ黄金期を築いたレジェンドOBたち。往年の名選手がカープへの熱い思いを語った『広島アスリートマガジン』連載記事を再掲載する。

 1980年代に投手王国と呼ばれたカープ投手陣において、左腕エースとして活躍した川口和久氏。「ひたすら走った」という高校での猛練習と届かなかった甲子園、そして家族への思いを語った。(『広島アスリートマガジン』2005年4月号掲載記事を再編集)(全8回/第1回)

2025年、マツダ スタジアムで開催された『CARP LEGEND GAME 2025』に登場した川口氏

◆「お前がピッチャーをやれ」。監督に指名された小学生時代

 鳥取市内の吉岡温泉に生まれた私は、2人の兄と一緒にいるうちに自然に野球に興味を覚えることになる。そして兄達と同様に鳥取市立湖南小学校の野球チームに小学4年生から入部。兄弟の中で左利きは私だけだった。私は箸や鉛筆は右で持つように両親から直されたが、ボールを投げることだけは最初から左だった。

 5年生で初めてレギュラーになったが、チームの中でも背が高かったことから、最初はファーストだった。ピッチャーになったのはその秋からで、新チームが発足した初日に、私を含め投手希望の4人でピッチングをした結果、監督に「お前がピッチャーをやれ」と指名された。

 それまでチームは地区大会でいつも1回戦負けだったが、6年生になって初めて勝つことができた。その日は自分でも調子が良くて、ストレートが非常に走り真ん中にボールが行ってもほとんど打たれなかった。小学6年生で160cm以上と長身だった分、角度がついていて相手バッターは打ちにくかったのだろう。

 中学校でも、私は迷わず野球部に入った。この学校もそれまで地区大会で勝ったことがなかったが、私が入学した後は春と夏の大会に連続で優勝した。1年生の時はファーストだったが、2年生の夏からはエースになった。

 市内では負け知らずだったが、県大会では1回戦で敗れた。当時は我々鳥取市などの県東部よりも、境港市や米子市など県西部の方がレベルが高かったのだ。

 高校は私立の鳥取城北高校に進む事になる。当時の橋本謙監督に最も言われたのは、「投手はとにかく走らなければダメだ」という事である。