2020年シーズンを持って現役引退を決断した佐藤寿人(ジェフユナイテッド千葉)。J1歴代2位のゴール数を記録した“ストライカー”は、かつてサンフレッチェ広島に12シーズン在籍した。ここでは『広島アスリートマガジン』誌上に掲載された数々のインタビューから厳選し、佐藤寿人のサッカー人生を本人の言葉と共に振り返っていく。 

 生まれ故郷である埼玉で行われた2009年シーズンの第17節浦和戦(7月11日)。体勢を崩しながらもボレーで叩き込むストライカーらしいゴールで、佐藤が『サンフレッチェ公式戦通算100得点』を達成した。

 2005年の移籍から、わずか4年半。クラブ初の記録を達成したエースは、感謝の言葉を口にしつつ100得点はあくまで通過点と言い切った。ここでは常に前進し続けた背番号11の軌跡を2009年シーズン中の言葉と共に振り返る。

ジュビロ磐田に移籍した駒野友一選手と対峙する佐藤寿人選手。

◆のしかかった移籍金1億6000万円のプレッシャー

― さて、ここからはクラブ初となる『サンフレッチェ公式戦通算100ゴール』を達成した寿人選手にこれまでを振り返っていただきたいと思います。まず、印象的なゴールを一つ挙げるとしたらどのゴールですか?

「やっぱり紫のユニフォームを着ての初ゴールですね(2005年J1第9節、新潟戦)。移籍した年は良いスタートが切れずにケガもあって本当に苦しかったです。キャンプの練習試合からずっとノーゴールでしたからね」

― 前年にJ2仙台で20得点をマークし、サポーターから大きな期待を受けての加入でした。プレッシャーもあったのではないですか?

「初めて自分に対して大きなお金が動いたので、やらなきゃというプレッシャーはありました。海外と比べれば1億6000万円近くの移籍金というのは安いものだと思うんですけど、サンフレッチェはそういう移籍金を払って選手を買うというクラブじゃないことは知っていましたからね。それだけ期待されているのは分かっていたし、自分自身の中でどこか自分の背中に1億6000万円というのが乗っていました(苦笑)」

― 小野剛監督(当時)の存在も大きかったのではないですか?

「もちろんです。小野さんがいたから僕は広島に来られたと思っています。小野さんとの出会いはU-16の日本代表のときで、当時は技術的な部分というよりも、FWとしての動き方とかそれまでに教わったことのない高いレベルのことを教えてもらいました。プロになるきっかけもつくってもらえたし、2005年から小野さんのもとでプレーできたことは非常に大きかったですね。」

― そして初ゴールからはコンスタントにゴールを重ね18ゴール。そして2006年も18ゴールで2年連続日本人得点王に輝きました。

「やれるという自信は徐々につきましたね。ただ、本当に良いチームメートに恵まれていると思います。自分は一人の力で点を取れる選手じゃないですからね。練習を重ねれば重ねるほどチームメートが僕のプレーを理解してくれていると感じていました。例えばコマ(駒野友一・磐田)はユース代表のときからずっと一緒にやっていたけど、(服部)公太さんは初めてでした。でも、外から見ていても日本でトップクラスのサイドの選手だと思っていて、実際に一緒にやるとすごさはすぐ分かりました。クロスはピンポイントで本当に絶妙ですからね。僕にとって左に公太さん、右にコマ。あとハンジェ(李漢宰)がいたというのはすごく大きかったですし、もしそういう選手たちに恵まれていなかったらと思うと怖いくらいです」

― 第16節の磐田戦では駒野選手が移籍してから初の直接対決となりました。何か意識はされましたか?

「特にはないですよ。ただ、コマが来年サンフレッチェに戻ってきてくれればなと思っています(笑)。コマは2年間磐田でプレーしていて、その間に十分コマが戻ってくるベースが自分たちにはできていると思うんです。あとはコマが『戻ってきたい』と思うようなサッカーを続けていかないといけませんね」

― 2006年からはクロスだけでなく、2トップを組むウェズレイ選手とのコンビでもゴールを重ねました。振り返ってみていかがですか?

「いやぁ~、ウェズレイは本当にシュートがうまい。いろんなタイプのFWの選手とコンビを組んできましたけど、ずば抜けて能力が高かったですね。あれだけ年齢を重ねていても試合をものにする力を持っていたし、意識の持ち方やシュートのこだわりなど学ぶことは数多くありました」