2025年、カープは赤ヘルとなり50周年を迎えた。長きにわたる歴史のなかで、多くのカープファンに愛され、数々の名試合が生まれた場所が旧広島市民球場だ。

 ここでは、カクテルライトを浴びながら白球を追った懐かしの赤ヘル戦士たちが語ったエピソードを紹介。今回は、旧広島市民球場でプロデビューを果たし、旧広島市民球場で現役引退を迎えたレジェンド左腕・大野豊氏が、2008年に語った旧市民球場での思い出を改めて紹介する。(広島アスリートマガジン2008年掲載記事を再編集。表現・表記は掲載当時のまま)

数々の名勝負が繰り広げられた旧広島市民球場

◆苦いデビュー戦も、歓喜の優勝も味わった旧広島市民球場

 私にとって広島市民球場はデビュー戦と引退試合の舞台であり、プロ野球人生のスタートとゴールを飾った、思い出深くとても愛着のある球場です。

 プロ初登板は私がテストでカープに入団した1977年。8月に一軍に昇格してから約1ヵ月後の、9月4日の阪神戦でした。地元から応援団の方も来てくれていたのですが、0回1/3、自責5という散々なデビュー戦となってしまいました。苦いスタートとなり、それから『このままではいけない』と常に危機感を抱いてやっていました。

 そういう意味では2年目に1年を通して一軍で起用してもらったことは、3勝という勝ち星の数以上に自信になりました。そしてファンの方から叱咤激励を含んだ野次を受けるようになったのもその頃からでした(苦笑)。

 広島市民球場は選手とファンの距離がとても近いので、声援も野次もよく聞こえるんです。それでも、彼らは相手のことをしっかり知った上で野次っているので、素直な気持ちで受け止めれば「もっと頑張れ!」と言ってくれているのだと、そう思ってプレーしていました。ファンの声や空気を肌で感じられた球場だったので、地元のファンに野次られる選手ではいけない、野次られないような成績や内容をしっかり残さなければいけないという気持ちでいつも投げていました。

 印象に残っている試合は、1991年に優勝を決めた阪神戦です。先発した佐々岡(真司)の後を受けてマウンドに上がり、胴上げ投手になることができました。また同時に、辛い思い出として残っているのは1988年、先発した巨人戦で0対0の延長戦で勝呂にバックスクリーンへ一発を浴びて敗れた試合です。広島市民球場には数えきれないほど、様々な思い出が詰まっています。

 広島市民球場では相手チームだけでなく暑さや風といった自然、そして球場の狭さも頭に入れてプレーしなければいけませんでした。ただ、その中でどうしたら打者に打たれない投球ができるのかと常に考えていました。そのためいろいろな球種を覚えましたし、配球にも苦慮しました。広島市民球場だからこそ、いろいろな経験を積むことができ、投手として成長することができたのだと思います。

 アマチュアの選手だった私が、「プロ野球に挑戦したい、成功したい」という思いを抱いてカープに入団してから、いろいろな方からの助けや声援があったからこそ22年間もプレーすることができたのだと思います。

 そして最後にたくさんのファンの前で引退試合やセレモニーをしていただき、本当に幸せ者だったとも思っています。

 防御率135点というスタートでしたが、707試合目にあれだけの声援の中、ましてや一緒に涙を流してくれた方もいて、広島のファンの温かさというものを改めて感じました。

 私は小さい頃から憧れていたプロの世界に、社会人を経て入ることができました。人生の中にはいろいろな道がありますが、自分がその道を選び、歩んできた中でやってきたことは本当に間違っていなかったと思えました。

 長嶋茂雄さんの「我が巨人軍は永久に不滅です」という言葉が印象に残っていたので、引退セレモニーでは私も何か言えたらと思っていたのですが、私の場合は自然と「我が選んだ道に悔いなし」という言葉が口を出ました。

 私の年齢と同じくらいの広島市民球場がなくなるということは『寂しい』の一言では済まされないほどの思いがあります。残してもらえれば懐かしむこともできますが、なくなってしまうと思うと、やはり辛いものですね。新しい球場はどんな球場ができるのかという期待もありますが、願わくば、何かの形として残して欲しいとも思っています。

■大野豊(おおの・ゆたか)
1955年8月30日生。1977年にテスト生からカープ入団。100勝100セーブを記録するなど先発、抑え両面で活躍した。1999年にカープ投手コーチを務め、北京五輪には野球日本代表のコーチとして参加した。現在はプロ野球解説者として活動中。