背番号は時に選手の代名詞として語られるなど、アスリートにとって大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

ヤクルト、阪神との競合のすえカープに入団した大瀬良大地投手は、1年目から二桁勝利をマークし新人王を獲得した。

◆名投手のイメージが強い背番号『14』

「カープの背番号『14』」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは津田恒実だろうか、それとも外木場義郎だろうか。現役でこの番号を背負う大瀬良大地を挙げる人も多いだろう。

 それだけ名投手のイメージが強い『14』だが、1950年の球団創設から2年間は内野手の田所重蔵のものだったという意外な事実もある。1952年以降は現在まで全て投手がつけている。

 入団2年目の1965年から『14』を背負った外木場義郎は、同年10月、プロ初勝利をいきなりノーヒットノーランで飾った。内容も圧巻で、出した走者がただ一人という準完全試合。しかも球団初のノーヒットノーランというオマケ付きでもあった。

 その後、一時低迷した外木場だが、1968年には復活を印象付ける2度目のノーヒットノーランを完全試合で達成。さらに1972年には沢村栄治(巨人)の日本記録に並ぶ3度目も成し遂げ、1975年は20勝を挙げてチームを初優勝に導き、沢村賞も受賞した。1979年の引退まで15年間にわたって『14』とともに歩んだ彼の名は、今も“伝説の右腕”として球団史に刻まれている。

 ドラフト1位で入団すると1982年に12勝を挙げ、球団初の新人王に輝いた津田恒美は、手術からの復帰を果たした1985年に「恒実」に改名、同時に背番号も『15』から『14』に変更した。ここからストッパーとして奮闘し、1986年には胴上げ投手に。1989年には球団記録の40セーブポイントを達成し、最優秀救援も獲得した。

 闘志溢れるピッチングで“炎のストッパー”の異名を取った津田だが、1991年春に水頭症との発表で戦線を離脱、そのまま退団となった。実は悪性の脳腫瘍が進行しており、1993年に32歳の若さで逝去。短くも熱く燃やしたプロ野球人生だった。

「ドラフト1位入団、背番号14、新人王獲得」という流れは、1997年に澤崎俊和が伝家の宝刀・スライダーで継承。さらに現在の14番、大瀬良大地にも受け継がれた。

 大瀬良は大学生の時に映像で見た津田のピッチングに憧れたという。一時は中継ぎも経験したが、2017年に先発に復帰。2018年には最多勝利、最高勝率で初タイトルを獲得後、2年連続で開幕投手を務めたが、2020年は右肘の手術もありプロ7年間でもっとも少ない登板数に終わった。

「しっかりと向き合いながら、津田さんを追い越せるように頑張っていきたい」

 プロ入り前から津田の直球に魅せられていたという大瀬良は、プロ入り後も時間があると伝説に残る津田とバースの対決の映像を見返していたという。エース返り咲きを目指す本格派右腕は、カープの背番号『14』の歴史にどんな新章を付け加えてくれるだろうか。

【背番号「14」を背負った主なカープ選手】
外木場義郎(投手/1965年-1979年)
津田恒実(投手/1985年-1991年)
澤﨑俊和(投手/1997年-2005年)
篠田純平(投手/2008年-2013年)
大瀬良大地(投手/2014-)