今もなお聖地として多くのカープファンが訪れる旧広島市民球場跡地。今回は、かつて2008年に広島アスリートマガジン上で連載していた『嗚呼、我が広島市民球場』を掲載。カクテルライトを浴びながら白球を追った懐かしの赤ヘル戦士たちの思い出をご覧いただこう。(表現、表記は掲載当時のまま)

2008年9月28日、旧広島市民球場での最後の試合終了後の風景

◆【第4回・安仁屋宗八】

 広島市民球場は私にとって、何よりの思い出です。生活をさせてくれたところであり、今の私があるのも広島市民球場、そしてカープのおかげだと思っています。カープに入っていなければ、ここまで野球に関わる仕事ができていなかったと思いますし、広島市民にもなれていなかった。カープに入り、広島市民球場でプレーできて本当に良かったと実感しています。

 入団するにあたって、当時の沖縄は、パスポートが必要でした。他球団のスカウトの人はパスポートを持っていませんでしたが、カープは当時、選手だった日系2世のフィーバー平山(平山智)さんがパスポートを持っていたんです。スカウトではないのに沖縄に来てくれたこともあり、カープ入団は、平山さんの情熱に負けたような感じでしたね。僕としては、まだプロ野球選手なんて夢のまた夢と思っていましたし、あの頃はプロ野球選手という意識もありませんでした。

 契約を交わした場所は、広島市民球場の事務所でした。「ここで何年やれるか分からない。ただ、契約した1年間はここでやれるんだな」という思いでした。当時は沖縄に球場がなかったので、「ああこんな良い球場で野球をやらせてもらえるんだ」と思いました。やっぱり広島に来たのは良かったと感じました。

 みんな広島市民球場を狭い狭いと言いますが、私にとってはすごく相性のいい球場でした。64年6月14日に巨人戦でプロ初勝利を挙げた試合も、9回2死までノーヒットの投球で巨人・堀内恒夫の新人14連勝を止めたのも、ここでした。この広島市民球場には、いろんな思い出がたくさん詰まっています。

 中でも私が一番広島市民球場らしい思い出だと思うのは、ファンとの触れ合い。今でこそブルペンは、外野の室内にできていますが、私が現役の時代は外にありました。一塁側のファウルグラウンドにあり、スタンドのお客さんとの距離も近く、普通に会話することができました。夏休みになれば子供と楽しく会話して、ボールをあげたり、サインをしたりと、ファンの人たちを身近に感じることができました。

 ただ、広島の人たちは気性が激しく、試合に負ければ野次られ、うどんの汁から缶まで飛んできました。反対に、試合に勝てばみんなすごく喜んでくれていましたね。ファンにとっては当たり前のことだと思いますが、そういったファンと直に触れ合えたことが良かった。私個人としては、広島市民球場は元々たる募金でできたような球場なので、ファンと直接コミュニケーションができたあの頃のような雰囲気が今でもあればいいと思いますね。

 正直言えば、新しい球場も今の広島市民球場の跡に建てて欲しかった。今でも本当は残して欲しいですが、市の意向があるのでしょうから、仕方のないことなのかもしれません。ただ、今後どういう形になるか分からないですが、ブルペンにある津田のプレートは、新球場に持って行ってもらいたい。もしくは球場跡地を公園にするのであれば、その片隅でも良いからプレートをそのまま残してもらえればと思います。

 今年で広島市民球場はなくなってしまいますが、いつまで経っても広島市民の頭の中に残るものだと信じています。

(広島アスリートマガジン2008年8月号より)

安仁屋宗八●1944年8月17日生まれ
64年にカープ入団。沖縄県出身者初のプロ野球選手。68年には23勝を挙げるなどエースとして活躍。75年に阪神へ移籍するも80年に復帰。81年引退後はコーチ、二軍監督を歴任。