初年度から主軸を形成した“赤ヘルの若大将”
勝負強い打撃で80年代のカープ黄金期を牽引

 

 3歳のときに腎臓の難病、ネフローゼ症候群を発症した小早川は、小学6年生まで強度の高い運動を禁止されていた。症状によっては命にかかわる難病だ。周囲から運動を止められるのも当然だった。

 しかし小早川の場合は幸運だった。中学校に進学する頃には病状も安定し、運動の解禁と同時に野球部に入部。決して早いスタートではなかったが、日々の猛練習で秘めた素質を開花させていった。

 広島在住の野球少年の噂は大阪にまで流れ、甲子園の常連校であるPL学園高から誘いが入った。地元の強豪、広島商高という選択肢もあったが、小早川が選んだのは最初に声をかけてくれたPLだった。高2、高3の春に甲子園に出場した小早川は、卒業後も法政大で野球を継続。この頃になると、すでにプロ入り後の活躍を予感させるような活躍を見せていた。

 大学1年の春季リーグから4番を任されると、史上最年少で東京六大学のベストナイン(一塁手)を獲得。大学2年の秋季リーグでは三冠王に輝き、日米大学野球選手権では日本代表にも選出された。

 在学期間に4度のリーグ優勝に貢献した小早川は、当然のようにドラフトの目玉選手の一人となっていた。なかでも山本浩二(86年に引退)、衣笠祥雄(87年に引退)の後継者を求めていたカープにとって、法政大のスラッガーはうってつけとも言える存在だった。カープから83年にドラフト2位指名を受けて晴れて地元球団に入団した小早川は、1年目から期待に違わぬ活躍を見せた。シーズンの大半で主軸の3番を任されリーグ優勝、日本一の原動力となると、個人としても新人王を獲得。山本、衣笠と共にクリーンアップを形成し、昭和後期の黄金期を築き上げた。

 勝負強いバッティングを物語るのが、今も語り草となっている87年9月20日のサヨナラ2点本塁打だ。巨人の1点リードで迎えた9回裏、法政大の後輩に手痛い一発を浴びた江川卓は、この被弾により引退を決意したと言われている。“怪物”を打ち崩したこの一発をはじめ、現役時代には多くの印象に残る名シーンを生み出した。

 ヤクルトに移籍しての1年目、巨人のエース・斎藤雅樹から放った3打席連続本塁打も、その一つだ。当時の斎藤といえば3年連続で開幕戦完封勝利を飾り、前年には沢村賞を受賞するなど脂が乗りきっていた。そんな大投手からの開幕ゲーム3連発。野村克也監督のもとで勝負強い打撃を蘇らせた小早川は、結果的にその年のリーグ優勝にも大きく貢献した。

 99年限りで現役を引退するとプロ野球解説者を経て、06年から古巣カープで一軍打撃コーチに就任。09年以降は再び解説者として、野球の魅力をファンに伝え続けている。

◾️小早川毅彦  Takehiko Kobayakawa
広島県出身/1961年11月15日生/右投左打/内野手/PL学園高-法政大-広島(84年-96年)-ヤクルト(97年-99年)
【表彰・獲得タイトル・記録】
新人王(1984年)/月間MVP(1987年6月)/最多勝利打点(1987年)