背番号は時に選手の代名詞として語られるなど、アスリートにとって大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

低迷期のカープで先発の柱の一角として活躍した大竹寛投手。

 前回、背番号『6』の記事中、「『1』から『9』までの『ひとケタ番号』は野手が占める割合がかなり高い」と書いたが、対照的にカープで“投手の番号”となっているのが『11』から『24』だ。この中でも一部例外があり、またこれ以外にも投手の割合が高い番号はあるが、俗に“エースナンバー”と言われる『18』を含む『11』から『24』は、“投手ブロック”と呼んで差し支えないだろう。

 その中で今回は背番号『17』を追ってみる。1950年の球団創設時、投手の黒川浩が1年だけ着けて引退したことから始まったこの歴史は、同じく投手の杉浦竜太郎が2年、捕手の門前真佐人が4年(最後の1年は助監督兼任)、1年ほどブランクが空いた後、1958年から鵜狩道夫(のち好応、道旺に改名)と続く。

 西鉄からの移籍後、1967年限りで引退するまで『17』を背負った鵜狩は、好不調の波が激しいことで知られた。本人曰く「お天気屋」だったからというが、ウエスタン・リーグで史上初の完全試合も達成するなど、その地力は確かだ。また鵜狩と言えば1958年、長嶋茂雄の「幻の本塁打」の際の投手だったことでも知られている。2018年、82歳で死去した。