背番号は時に選手の代名詞として語られるなど、アスリートにとって大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

超優良助っ人としてリーグ優勝に貢献したクリス・ジョンソン投手(右)。

 背番号『42』は球団創設から4年目の1953年に、投手の松山昇が1年だけ着けて“解禁”。以後、1977年までは大きめの番号らしく、20シーズンで8選手(1年空白あり)と、やや入れ替わりが激しかった。

 逆に2000年以降は現在まで22シーズンで9選手(空白なし)と安定感が増している。もう一つ大きな特徴があって、それは“カタカナが目立つ”ことだ。

 外国人助っ人で『42』を初めて使用したのは、1987年に入団したランディ・ジョンソン。9年間空白の背番号を与えられた彼は、規定打席には及ばなかったものの打率3割と期待通りの働きを見せ、翌1988年には背番号も『5』に“出世”。しかし負傷が響きシーズン途中で退団し帰国した。

 その後1988年から1999年にかけては、1992年に大塚賢一、1994年に渡辺伸治、1998年に山田勉が着けるも、それぞれ移籍や引退で1年のみ、他の年は空白という状態を経て、2000年には久々に外国人助っ人のカンバーランドが使用。しかしわずか1カ月でお払い箱になると、入れ替わりのラドウィックが1年半、2002年入団のスタニファーも1年のみと、“不発”が続いた。

 続くブロックは入団した2003年に8勝をマークして期待を持たせたが、一方でリーグ最多の与死球や、日本で当時最多となる11ボークを記録するなど課題も山積み。翌年の春季キャンプで右肩を故障し、検査のため帰国。そのまま退団となった。