◆田中将大から本塁打を放った期待のスラッガー

 松山の「55」への変更で空いた「44」を背負って現在に至るのが、ドラフト3位入団の林晃汰。智辯和歌山高時代には甲子園に春1回、夏2回出場。3年の春には準優勝という実績を引っさげてプロ入り。

 ルーキーイヤーの2019年は一軍昇格はならず、ウエスタン・リーグで102試合に出場し、ルーキーイヤー最多タイとなる7本塁打を記録した。2020年も大半をウエスタン・リーグでプレーしたが、四番に定着してチームを引っ張る打撃を見せ、シーズン終盤に初の一軍昇格を果たした。今季は5月に一軍登録されると、2本塁打に初の猛打賞も獲得するなど、交流戦で着実に力を見せている。

◆俊足を武器にグラウンドを駆け回った韋駄天

 今のところ、この背番号「44」の最長記録は、1997年に「53」から変更した福地和広(1999年より「福地寿樹」に改名)の9年。福地は「53」時代から「44」時代にまたがる1995年~1998年の4年間、連続でウエスタン・リーグの盗塁王を獲得。一軍初出場は「44」を着けてからの1997年のことだった。

 2000年以降は代走としても評価されて一軍での試合出場も増え、2003年にはカープ時代最高の91試合に出場。だが翌年以降は故障も響き、2006年春に西武へ移籍した。

 冒頭に触れたように「44」の使用者には投手もいれば助っ人外国人もいる。最後にその中から1人ずつ紹介しておこう。まず投手からは金田留広。正一、高義、星雄の3人の兄に続いて1969年にプロ入りし、ルーキーイヤーから59試合に登板する猛烈な活躍を見せた。カープにはキャリア最終の1979年に移籍して「44」を着け、この年、そして翌1980年のリーグ連覇の一員となった。1980年6月12日に、王貞治に通算850号本塁打を打たれている。

 外国人選手は1983年のフィルキンス、翌1984年のレーシッチ、そして1989~1990年のロードンの3人が「44」を着けた。中でも唯一複数年在籍したロードンは1989年には打率.300・22本塁打・14失策と活躍し、三塁手としてゴールデングラブ賞を獲得。しかし翌1990年は、ほとんどを二軍で過ごした末に退団している。

【背番号『44』を背負った主なカープ選手】
金田留広(投手/1979年-1982年)
福地和広(1999年より「福地寿樹」に改名)(内野手/1997年-2006年)
迎祐一郎(外野手/2010年-2014年)
松山竜平(外野手/2015年-2018年)
林晃汰(内野手/2019年-)
※初めて背番号を付けたシーズンのポジションを表記。