背番号は時に選手の代名詞として語られるなど、アスリートにとって大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

甲子園で活躍し、2009年ドラフト2位で入団した堂林翔太選手。

 今回のテーマである背番号「13」は、10番台にしてはブランクが多く、各選手の保有期間が長くない番号だ。実際、球団創設からの72シーズンで14シーズンが持ち主不在のブランク。そして最長記録は5年。10番台は言うに及ばず、他の番号に比べても入れ替わりが激しい。

 ただし若い番号だけあってドラフト上位指名で入団した期待の選手が着ける場合も多い。ドラフト1位で1984年に入団した川端順は当初この「13」を与えられていたが、翌年には「33」に変更。その1985年にブレイクを果たすのだから、分からないものである。

(川端の詳細は「33」の項を参照のこと)

 冒頭に述べた最長記録、5シーズンにわたってこの「13」を背負ったのは千葉剛(1970年~1974年)と、菊地原毅(2000年~2004年)の2人。どちらも「つよし」なのは単なる偶然か。千葉はドラフト1位での入団だったが一軍での登板は少なく、1974年限りで引退。菊地原については「13」の前に背負っていた「49」の項で詳述している

◆アレックス・ロドリゲスのような選手になってほしい

 2009年のドラフト会議で2位指名を受けての入団で「13」を与えられたのが、堂林翔太。愛知県豊田市出身の堂林は、中京大中京高ではエース兼四番を務め、3年の夏に甲子園全国優勝を果たす。その活躍からの2位指名だったが、入団後に背番号「13」が割り振られたのは、アレックス・ロドリゲスのような選手になってほしいという願いが込められてのものだったという。

 だが最初の2年間は一軍登録には至らず。ウエスタン・リーグではコンスタントに出場したが、守備面で課題を残した他、2年目の2011年は打撃も前年ほどには振るわなかった。

 3年目の2012年は堂林にとって大きな転機となった。野村謙二郎監督の期待を受けて開幕から一軍入りし、開幕戦で一軍デビュー。このシーズンはフル出場を果たし、打率.242、14本塁打という成績を残した。この成績を受けて、翌2013年からは野村監督が現役時代に着けていた背番号「7」を8年ぶりに復活させたのだ。その後の活躍については、「7」の項を参照されたい。