背番号は時に選手の代名詞として語られるなど、アスリートにとって大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。 

2019年から背番号49を背負う正隨優弥選手。

 今回のテーマとなる背番号は「49」。日本では「4」や「9」といった数は縁起が悪いとされることもあるが、こと背番号の世界においてはそういったジンクスとは無縁のようで、どの球団でも「4」も「9」もそして「49」も、普通に使われている。

 一方でカープの「49」の歴史を見ると、使用者のない「ブランク」の年が多いことが分かる。球団創設から今季までの72年間の中で、使用者がいなかったシーズンは20に及ぶ。全体の3分の1に近い割合となっている。もちろんジンクスのせいなどではないが、その周辺の背番号にはない特徴だ。

◆日本プロ野球シーズン最多登板タイ記録を達成した左腕

 特に吉岡厚司(1976年)、平岡一郎(1977年)、門田純良(1979年)、下地勝治(1980年)と4人連続で使用者が引退した後は、1981年から1988年まで8年間にわたって、誰もこの番号を着けていなかった。ただし1989年にアレンが背負って「復活」して以降、ブランクは2007年の1年のみ。現在は“通常営業”と言っていいだろう。

 その「復活」以降の選手でまず取り上げたいのは、1994年に「26」から変更してきた菊地原毅だ。神奈川県出身の菊地原は1992年のドラフト会議で2位指名を受けてカープに入団。業務提携を結んでいた台湾・時報イーグルスに派遣された1995年を挟み、翌1996年まで4年間は国内での一軍登板はならず。

 結局「49」を背負っていた1999年シーズンまでは大きな活躍できなかったのだが、調子を上げて背番号を「13」に変更しての2年目、2001年にブレイク。貴重な中継ぎ左腕として78試合に登板し、稲尾和久に並ぶ当時の日本プロ野球シーズン最多登板タイ記録を達成したのだ。だが翌年は失調し、2004年限りでオリックスに移籍。2011年にカープに復帰し、2013年限りでの引退までを過ごした。