毎年さまざまなドラマが生まれ、そして新たなプロ野球選手が誕生するプロ野球ドラフト会議。10月11日の開催まで1カ月を切った。長いドラフトの歴史の中で、カープスカウト陣はこれまで独特の眼力で多くの原石を発掘してきた。

 本企画では、かつてカープのスカウトとして長年活躍してきた故・備前喜夫氏がカープレジェンドたちの獲得秘話を語った、広島アスリートマガジン創刊当時の連載『コイが生まれた日』を再編集して掲載する。

 連載当時にエピソードを話してくれた備前氏は、1952年にカープに入団し、長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後はカープのコーチ、二軍監督を歴任。スカウトとしては25年間活動し、1987~2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わってきた名スカウトだ。

 ここでは、長年中継ぎとして活躍した左腕・菊地原毅(現カープ一軍投手コーチ)の指名秘話をお送りする。1992年ドラフト2位で指名されカープに入団した菊地原。リリーフとして頭角を現した2001年には、稲尾和久に並ぶ年間最多登板の日本タイ記録となる78試合登板を達成するなど、タフな中継ぎ左腕として活躍した。

 中継ぎとしてプロ野球界を生き抜いた菊地原は、どのような経緯でドラフトされたのか? 備前氏の証言から振り返っていく。

2001年、当時の日本タイ記録となる年間最多試合登板(78試合)を達成するなど、リリーフとして活躍した菊地原毅。現役引退後は、コーチとして若手育成に取り組んでいる。

◆全国的に無名も、全球団スカウトがマークしていた逸材

 1992年秋のドラフト会議で、カープは8名の選手を指名しましたが、そのうち6人が投手でした。1位の佐藤剛(本田技研)、3位の鈴木健(日本石油)という社会人を代表する本格派右腕の他は、4人が全て高校生左腕という実に珍しいケースです。その4人の高校生の中で最も高い評価を受けていたのが、2位で指名した菊地原でした。担当したのは渡辺秀武スカウトです。

 他の左腕投手は、6位多田昌弘(拓大紅陵高)、7位池田郁夫(花咲徳栄高)、8位高橋顕法(仙台育英)。菊地原、多田、池田は同じ関東地区ですが、多田、池田は野球部に力を入れた私学での準エースに対し、菊地原は公立校である神奈川県立相武台高のエースでした。

 この学校は相模原市内の団地にある普通科のみの進学校で、野球部員は学校近辺に住む普通の生徒ばかり。全国的には無名校でした。菊地原自身も学校近くの自宅から通学しており、同校OBの選手と言っても、菊地原のお兄さんが同校から法政大野球部に進んだぐらいでした。

 しかし投手としての素材は、彼は普通の高校球児とは明らかに違っていました。140km以上の速球と大きなカーブが素晴らしく、全国的にも有名でほとんど全球団のスカウトがマークしていました。

 私が初めて見たのは、3年生の夏の県大会とその後の招待試合です。場所は彼の地元である相模原球場。確かにブレーキがかかった大きなカーブなど素晴らしいボールは見られました。ただ強豪校ではなかったために、場慣れしていないというか、肝心な場面で自分の実力を発揮する事ができていなかったように思いました。特に制球力の面で自滅するケースが多かったように記憶しています。

 ウエイトトレーニングの成果もあって、カープ入団後は、上半身、下半身ともがっちりしてきました。しかしドラフト指名直後、私が初めて彼と対面した時は、全体的に細身で顔も小さく、ニキビも多少残った、高校生そのものという感じでした。性格もおとなしく、しゃべる声も小さかったように覚えています。

 それまで親元を離れた事がなかっただけに、入団前は、特にお母さんが「広島は遠いですから…」と入団に難色を示していました。私達スカウトとしては「今は交通も発達しているし、飛行機を使えば名古屋より時間はかかりません」とお母さんを説得したのを覚えています。そして本人も「プロでやってみたい」と決断してくれたので、獲得する事ができました。

 入団した1993年は、守護神の大野豊、左のエース川口和久の主力を筆頭に、若手の石貫宏臣と前間卓、2年目の伊藤真と佐藤貞治、西武から移籍した前田耕司、中日から移籍した小早川幸二など、投手31人中、左投手が入団した4新人を含め12人いました。

 翌年1994年には田中由基も加わり、左腕投手が13人、うち2年目までの若手左腕が7人いるという大競争となりました。さらに1995年入団の高橋建、嶋重宣(1999年より野手に転向)も含めて、この頃は左投手をかなり積極的に獲得したように思います。同期の多田、池田、高橋が1年目からウエスタンで登板したのに対して、体の線が細かった菊地原は、入団して2年間は故障もあって体力づくりに専念しました。二軍での登板は3年目から、一軍デビューは5年目と、評判の割には時間がかかったようにも思えます。

 左投手の場合には、中継ぎなど救援向きとして獲得するケースも決してないわけではありません。たとえ現役で活躍できなかったとしても、打撃投手としてチームに残る道も右投手に比べて多いと言えます。しかし菊地原の場合は、我々スカウトとしては「大野、川口の跡を継ぐ将来の左のエース」として獲得しました。速球とカーブを主体としたオーソドックスなフォームでのピッチングをしていたことなどを踏まえて「リリーフではなく先発として長い眼で成長を見守るべき」という見方をしていたのです。

 起用していた当時の首脳陣も、その素材の高さから「将来的には先発で」という想いは当然あったと思います。しかし当時の彼は、いつでもストライクを取る自信のあるボールを持っていなかった事もあり、コントロールを乱して時折大量点を与えてしまうこともありました。2000年までに一軍で合計38試合に登板し、そのうち7試合に先発しましたが、3勝8敗、防御率8.24と、なかなか結果を出すことができませんでした。

 しかし山本監督の復帰1年目となった2001年、菊地原はワンポイントなど中継ぎに専念して一年間フルに活躍。78試合という年間最多試合登板の当時の日本タイ記録を達成しました。この頃ぐらいから、決め球として鋭く曲がるスライダーを身につけたようで、そのボールがあるからこそ、堂々としたマウンドさばきができるようになったと感じています。