広島県の高校球児としてプレーをしたプロ野球選手、OBが高校当時を振り返る本企画。今回は、県立広島工業高校出身の新井貴浩氏(元広島東洋カープ)に当時の思い出を語ってもらった。

 広島県高校野球界で“県工”の愛称で知られる同校は、春のセンバツ5回、夏の甲子園5回出場を誇る。新井氏自身は甲子園出場こそ叶わなかったが、2年秋からの新チームではキャプテンを務めるなど、中心選手として高校野球生活を過ごしていた。

 “新井氏が語る高校時代の思い出”の3回目は、「甲子園への思い」をお送りする。

高校時代は縁がなく、プロ入り後に初めて甲子園球場でプレーした新井氏。

◆PL学園のユニホームは憧れだった

 僕は甲子園出場は叶いませんでしたが、この悔しさというのは僕の力になりました。その後駒澤大に進学しましたが、甲子園組とそうでない組があります。なので、甲子園組には負けたくない! という思いがずっとありましたね。

 そして高校野球といえばやっぱり甲子園ですが、僕の中では“KKコンビ”桑田真澄さんと清原和博さんのイメージでした。あのPL学園のユニホームというのは、僕らの年代の野球少年は憧れがありましたよね。高校野球はいろんな強豪校がありますが、僕の中ではPL学園です。打席の中で胸のお守りを握る仕草などは印象に残っています。

 甲子園の試合で印象に残っているものを挙げると、1996年の夏の甲子園の決勝戦・松山商業と熊本工業の一戦での「奇跡のバックホーム」です。あれはインパクトが強かったですね。鳥肌が立って興奮しましたし、これぞ高校野球! という感じでしたよね。

 高校球児が目指し、憧れる甲子園球場ですが、僕が初めてプレーをしたのはカープに入団したプロ入り後でした。そういう意味ではプロに入って一番最初に感動したのが甲子園球場でした。最初に思ったのは「大きいな」ということでした。グラウンドレベルから見たスタンド、球場全体というのは圧倒されました。

 また大学やプロ時代、夏の甲子園の時期になるとチームメートと高校野球の話題になりましたよね。駒澤大時代は、横浜やPL学園など強豪校出身の選手もいて盛り上がりましたよね。(第4回に続く)