1950年1月15日、万雷の拍手と共に産声を上げたカープだが、その後の道程は茨の道だった。Aクラスに入ったのは68年のわずか一回のみ。そして優勝前年の1974年までは3年連続最下位。『リーグのお荷物』と呼ばれた球団が『赤ヘル旋風』を巻き起こし、創立26年目で初優勝を果たした。

 

広島に熱狂をもたらした栄光の赤ヘル軍団

 3年連続最下位で迎えた75年。典型的な弱小チームの改革に打ち出した球団は、球界初となるメジャー出身者を監督に抜擢した。当時の選手たちは負けることに慣れ切っていた。そんなチーム内に蔓延していた負け犬根性の払拭を目指したジョー・ルーツは、大胆な改革案を打ち出した。

 大型トレード、そして帽子の色を青から闘志を象徴する赤に変更。心に働きかけるルーツ革命は、次第に選手たちの内側に闘争心を植え付けていった。審判との衝突をきっかけに開幕からわずか15試合で電撃辞任したルーツだが、彼が提唱した『可能性が1%でもある限り全力を尽くす』姿勢は、その後も選手たちの指針となった。

 開幕ダッシュに失敗したカープだが、新たに就任した古葉竹識監督の下で急浮上を見せる。そこから前年の覇者・中日、阪神、ヤクルトとの“四つ巴”の争いが繰り広げられることになった。かの有名なⅤ9(65〜73年)を成し遂げた巨人は、この年全ての月で黒星が先行し早々と脱落。前年に長嶋茂雄が引退するなど、セ・リーグは巨人一強時代から群雄割拠の時代へと移り変わる転換期を迎えていた。

 通常なら鯉の季節以降は脱落するのが常だったカープだが、この年は粘りの戦いを見せて5月17日には2年ぶりの単独首位に立った。6月中旬に5連敗を喫して貯金が1となったときは、さすがに快進撃を疑う声も出始めた。それでも6月19日の勝利をきっかけに、Ⅴ字回復を果たすことに成功。弱小球団の躍進、オールスターゲームでの山本浩二、衣笠祥雄の2打席連続アベックアーチなどが追い風となり、世間では『赤ヘル旋風』が巻き起こることになった。チームは前半戦を終えた時点で、首位・阪神に1・5ゲーム差と肉薄。衰えぬ勢いに、広島の街も日増しに大きく沸きたっていった。