歴代2位のJ1通算161得点、Jリーグ最多となる通算220得点など、FWとして数々の金字塔を打ち立て、2020年に現役引退した佐藤寿人氏。2005年にサンフレッチェ広島に移籍し、3度のJ1リーグ優勝に大きく貢献した。生粋のストライカーの広島での12年間を佐藤寿人氏の言葉で振り返っていく。

広島移籍初年度となる2005年。佐藤寿人はリーグ得点ランク3位となる18得点、日本人最多得点を記録。Jリーグベストイレブンに輝くなど結果を残した。

【第3回】久保社長から届けられたメッセージ

 移籍1年目のシーズン。開幕後は2試合連続で先発するも3試合目からは控えとなって途中出場。6試合ノーゴールが続き、そのあとの2試合は負傷の影響でベンチ外。欠場していたとき、当時の久保允誉社長から突然、自宅に花が届いたのには驚きました。

 移籍金を払ってまで獲得した選手が結果を出せず、文句の一つも言いたくなるはずなのに、『ゴールはそのうち取れるから、焦らず、自分らしく頑張れ』というポジティブなメッセージも添えられていて、救われた気持ちになったことを覚えています。

 2試合欠場後の第9節、新潟戦に先発メンバーで復帰しました。いまにして思えば小野さんは、よく先発で使ってくれたと思います。広島は第5節から3勝1分けと好調で、茂木選手や前田俊介選手もゴールを決めていたのに、彼らが控えで、いまだに無得点で負傷明けの僕が先発だったのですから。

 1-0とリードして迎えた44分、コマ(駒野友一)の高速アーリークロスからついに初得点。本当に心の底からホッとしました。この試合で決めることができていなかったら、その後の僕のキャリアはどうなっていたか分かりません。ただ、良いゴールに見えますが、ニアサイドに入り過ぎたのは反省点でした。何とか右足で合わせましたが、ゴールを決めたい、決めなければいけないという気持ちが強過ぎたんだと思います。65分の2点目は、初得点で気持ちに余裕があったからか、落ち着いてコースを狙って決めることができました。

 それからは茂木選手、前田選手とのチーム内競争の中で、得点を重ねていくことができました。チームメートのクオリティーも高く、日々サッカーをすることが楽しかったです。仙台から来るときに求めていた選手としての成長を、広島で実感していました。

 シーズン後半に数字を伸ばせたのは、結果を出すことで、僕の動きを周囲が認識してくれるようになったことが大きいです。コマだけでなく、(服部)公太さんやハンジェ(李漢宰=リ・ハンジェ)も、意識して僕のことを見てくれるようになり、本当の意味で広島の一員として認められたと感じていました。

 最終的にJリーグ日本人最多の18得点を決めることができました。初めてJリーグベストイレブンに選ばれ、チームも前年の12位から7位に。移籍の決断が間違いではなかったことを、結果で証明することができたシーズンでした。

 年末には初めて日本代表に選出され、翌年2月のアメリカ遠征に参加することになりました。ゴールを決めて自分の価値を高め、チームを勝利に導き、日本代表に選ばれる。ステップアップでキャリアの大きな転機となりましたが、翌年から波乱万丈の2年間を過ごすことになります。(続く)

●プロフィール
佐藤寿人(さとう ひさと)
1982年3月12日生、埼玉県出身。市原(現千葉)ユースから2000年にトップ昇格。C大阪、仙台を経て、2005年にサンフレッチェに移籍。3度のリーグ優勝に貢献し、2012年にはMVPと得点王を獲得した。2017年に名古屋に移籍し2019年からは千葉でプレー。2020年限りで現役を引退。通算のJ1得点数は歴代2位を誇る日本を代表するストライカー。引退後は指導者・解説者として活動している。