“あのシーズンの今日のカープ”はどんな出来事があったのか?を振り返る本企画。今回は今から37年前の今日、1984年10月13日。“カープが3度目の日本一を達成した日”を改めて振り返っていく。

旧広島市民球場跡地に設置された「日本選手権シリーズ優勝記念碑」の横で笑顔を見せる山根和夫氏(2015年撮影)

 1984年、チームを率いるのは就任10年目の古葉竹識監督。4月に球団新記録の12連勝を飾るなどチームは開幕ダッシュに成功。その後は中日との優勝争いとなった。一時は首位を明け渡すも、終盤9月に首位に立つと、10月4日に1980年以来4年ぶりとなるリーグ優勝を果たした。

 当時の打線はベテランの山本浩二、衣笠祥雄を中心に、髙橋慶彦、山崎隆造、長嶋清幸など古葉監督が育てた若手選手、そして新人王に輝いたルーキー小早川毅彦の活躍もあり、バランスの良いメンバーが揃っていた。衣笠はプロ20年目で初の3割超えを記録し、打点王を獲得するなどシーズンMVPに輝いた。

 リーグ1位のチーム防御率を誇った投手陣は北別府学、山根和夫を筆頭に、この年から先発に転向した大野豊、川口和久、西武から復帰した小林誠二らが好投を見せた。

 日本シリーズの相手は、初優勝を果たした1975年に4敗2分と完敗を喫した阪急ブレーブス。古葉カープは9年越しのリベンジに燃えた。阪急と対戦するにあたりテーマは、パ・リーグの三冠王に輝いた“ブーマー封じ”であった。

 日本一を懸けた戦いで活躍を見せたのが、“シリーズ男”と呼ばれた山根和夫。レギュラーシーズンでチーム最多の16勝を挙げた山根は日本シリーズで第1戦、第4戦に登板。そして3勝3敗で迎えた10月22日、第7戦の先発を任された。山根は当時の様子をこう振り返る。

「シリーズ前のミーティングでは『ブーマーの前にランナーを出さないこと』を合言葉に、徹底したインコース攻め、極端に言えば『抑えられないならば勝負を避けろ』という作戦でした」

 山根は、チームの戦略を忠実に遂行した。初回に弓岡敬二郎からソロ本塁打を浴びたものの、ブーマーを軸とするクリーンアップを攻略。9回2失点と大一番で好投を披露した。

 打線も山根の好投に応え、衣笠祥雄、長嶋清幸の本塁打で同点に追いつくと、終盤の7回に3点、8回に2点を奪うなど怒涛の畳み掛けで3度目の日本一を引き寄せた。

「1979年、1980年に続き、3度目となる第7戦での先発でした。6回までピンチの連続だったこともあり、私はコーチに『交代させてください』と話していました。後にも先にも『代えてくれ』と言ったのはこの時だけです。それほど勝って日本一になりたい気持ちが強かったです」

 結果的に山根は古葉竹識監督に続投を指示され、最後まで投げ切った。最後の打者・石嶺和彦をショートゴロに打ち取り、日本シリーズ通算5勝目を手中に収め、日本一の胴上げ投手に。チームは4年ぶり3度目の日本一の栄冠を勝ち取った。また、シリーズ前からマークしていたブーマーを打率.214、本塁打ゼロと完璧に封じ込めた。

 日本一の胴上げ投手となった山根は、後に最後の瞬間をこう語っている。

「打ち取った瞬間、私はうれしい気持ちと同時に『終わった』とやり切った感覚でした。野球人生最高の瞬間だったことに間違いはないですし、初めて胴上げ投手になることができました」

 2021年現在、カープにとっては1984年が最後の日本一である。