歴代2位のJ1通算161得点、Jリーグ最多となる通算220得点など、FWとして数々の金字塔を打ち立て、2020年に現役引退した佐藤寿人氏。2005年にサンフレッチェ広島に移籍し、3度のJ1リーグ優勝に大きく貢献した。生粋のストライカーの広島での12年間を佐藤寿人氏の言葉で振り返っていく。

2007年にJ2降格が決まったサンフレッチェ広島を、エースとして、キャプテンとして、強い気持ちで牽引し続けた佐藤寿人。

【第5回】J2降格の夜に心に決めた誓い

 リーグ再開後はプロ1年目の(柏木)陽介や、3年目のトシ(青山敏弘)がレギュラーとして活躍します。

 陽介は当時18歳、トシは20歳でしたが、ミシャは年齢や実績は関係なく、選手をフラットに見て評価していました。この年に加入したウェズレイと僕の連係も、試合を重ねるごとに良くなりました。

 最終的に10位でJ1に残留し、僕自身は前年と同じ18得点。苦しい状況でも仕事ができるようになってきたと、手応えを感じたシーズンです。エースと呼ばれるようになり、広島を勝たせなければいけないという自覚も出てきました。

 ミシャのスタイルが浸透した状態で開幕した2007年は、中盤戦までは浮き沈みがありながらも、決して悪くない状態を保っていました。

 分岐点になったのが7月のリーグ中断期間です。僕とコマ(駒野友一)が日本代表としてアジア杯に出場し、陽介、トシ、槙野智章、髙柳一誠が北京五輪を目指すU-22日本代表の活動に参加しました。ミシャにすると、何人もの選手が抜けた状態でチームづくりをする難しさがあったはずです。

 8月の再開以降、僕とウェズレイへのマークが厳しくなり、得点力不足に陥りました。それでも残り10試合で勝ち点29の13位。16位の大宮との勝ち点差は8だったので、何とか大丈夫だろうと考えていたのは確かです。

 ところが、次の試合から連敗が始まりました。一つ勝てば何とかなると思っているうちに、大宮との直接対決にも敗れて5連敗。次の試合で大宮に抜かれ16位となってしまいます。これは完全に僕の責任です。第19節から11試合無得点と結果を出せなかったのですから。中断前は上を見ていたのに、気付けば階段を転げ落ちて、崖の一歩手前まで来てしまっていた感じです。

 結局、最後の10試合は3分け7敗の未勝利。16位でJ2の京都との入れ替え戦に臨み、降格となってしまいました。

 試合後にサポーターの前で「絶対に1年で戻ろう!」と叫びました。11試合無得点なんてストライカーとしてあり得ません。その後、J1のクラブから金銭的にも魅力的なオファーがありましたが、広島に残留して1年でJ1に復帰させなければいけないと心に決めていました。(続く)

●プロフィール
佐藤寿人(さとう ひさと)
1982年3月12日生、埼玉県出身。市原(現千葉)ユースから2000年にトップ昇格。C大阪、仙台を経て、2005年にサンフレッチェに移籍。3度のリーグ優勝に貢献し、2012年にはMVPと得点王を獲得した。2017年に名古屋に移籍し2019年からは千葉でプレー。2020年限りで現役を引退。通算のJ1得点数は歴代2位を誇る日本を代表するストライカー。引退後は指導者・解説者として活動している。