組織論・戦略論などの視点から、近年のカープの強さ・魅力の秘密を紐解いていく、広島アスリートマガジンwebでしか体感できない講義・『カープ戦略解析室』。案内人は、高校野球の指導者を20年務め、現在は城西大経営学部准教授として教鞭をとるなど多彩な肩書きを持つ高柿健。2回目の今回は、カープ独自の育成システムに脈々と流れる、“ある力”について探っていく。

カープ初代監督・石本秀一の逆境力

 第1回の連載では、フロー型組織であるカープの躍進マトリクスを3つの分野で分析した。今回は4つ目の『育成システム』を中心として、カープに継承されてきたものは何かを考えてみたい。

 では、まずはその源流を確かめるため、時代を遡ることにしよう。

 1990年代に野茂英雄がMLBで活躍するよりも半世紀以上前の話だ。1934年に行われた日米野球に、17歳でべーブ・ルース率いるメジャーリーグ選抜をわずか1失点に抑えた日本人投手がいた。その投手は、後に東京巨人軍(現巨人)に入団することになる沢村栄治である。

 現在プロ野球の表彰に『沢村栄治賞』が設けられているが、その沢村の栄誉と功績を称えて制定された賞であり、先発完投型投手が受賞資格を持つものだ。ちなみに近年のカープ受賞者で言えば、2010、2015年の前田健太(現ツインズ)、2016年のK.ジョンソンが受賞している。

 戦前、この大投手の攻略に挑んだ人物がいる。大阪タイガース(現阪神)の監督を務めた石本秀一だ。石本監督は打撃投手を手前から投げさせるなど、快速球への徹底した対策により、巨人を打ち破り見事、タイガースを初優勝に導いた。

 石本は弱者を強者に変える『逆境のアーティスト』なのだ。

 それを裏付ける球跡は今も語り継がれている。もう少し時計の針を戻そう。石本は母校・広島商高を4度の全国優勝(1924、1929-31)に導いた人物でもある。当時、体力面で劣っていた広島商高を独自の精神的アプローチで鍛え上げ、県内のライバル校・広陵高に対抗したのだ。日本刀の上に裸足で挑む「真剣刃渡り」もその一つである。これは精神野球の究極の鍛錬法として、昭和後期まで継承された。

 一方で、石本のチームづくりは計画的なビジョンにもとづいて行われた。『1年目に基礎を固め、2年目は一流チームに挑戦して試合の駆け引きを経験させ、3年目は飛躍して覇権を掌握する』。さらに石本は当時では珍しい情報収集にも力を入れていた。戦略、適性、体調管理など、データ野球の先駆けとなる取り組みをすでに試みていたのだ。

 のちに語られた、この段階的プロセスで鍛え上げられた広島商高は、甲子園で3年連続優勝を果たした。

 プロ野球の世界で石本と師弟関係を築いた濃人渉(元中日監督・広陵高OB)は、こう振り返る。『実際この人ほど対戦相手に対し研究・分析を徹底的にして、練習の時からそれに対応した練習に取り組んでいた人はいない』。

 石本は精神野球のみならず、すでに理を重んじるデータ野球を試みていたのだ(ちなみに濃人は、カープを初優勝に導いた古葉竹識の社会人野球時代の恩師である)。

 弱者は通常の山道を登るだけでは、強者を追い越すことはできない。勝負どころを見極め、直感的に、けもの道に挑む覚悟が求められる。

 1950年、この理性(データ)と感性(精神論)を携えた石本は、カープの初代監督に就任した。