昭和の黄金期を支えた“ミスター赤ヘル”球史に残る活躍で背番号8は永久欠番に

 

 20年2月7日、山本浩二氏が久々に公の場に姿を現した。約10カ月の空白期間について、山本氏は膀胱がんと肺がんで4度の手術を受けていたことを告白。過酷な闘病生活を強いられたものの日常生活に大きな支障がないところまで回復したため、プロ野球解説者として再び現場復帰することが本人の口から発表された。

 カープ史のみならず、プロ野球史に燦然と輝くのが山本浩二(69年〜74年=浩司)の足跡だ。69年に法政大から鳴り物入りでカープに入団すると、1年目からセンターに定着。前年、初のAクラス入りを果たしながら再びBクラスが定位置となっていたチームの中で、衣笠祥雄、三村敏之、水谷実雄らと共に次代を担う主力選手として期待をかけられていた。

 ターニングポイントとなったのは、やはりジョー・ルーツ監督のもと始動した75年だろう。オールスターゲーム第1戦で山本と衣笠が共に2本塁打を放ち“赤ヘル旋風”を巻き起こすと、その余波はペナントレースにまで波及。山本自身、首位打者とMVPを獲得する活躍を見せ、カープ史上初となるリーグ優勝を引き寄せた。

 入団当初は俊足巧打の強肩外野手として名を馳せたが、77年から5年連続で40本塁打、100打点超えを記録するなど球界屈指のスラッガーとしての地位を確立した。名実共にカープの中心選手となり、周囲からは“ミスター赤ヘル”の愛称で親しまれるようになった。余談になるがカープがチームカラーに赤を取り入れたのは、チームと共に山本が上昇気流に乗った75年。ミスター赤ヘルという呼び名は、まさに言い得て妙なニックネームだった。

 カープ一筋18年で歴代4位となる536本塁打を放った山本は、86年限りで現役を引退した。それに伴い現役時の大半で背負った背番号『8』は、球団初の永久欠番に指定されることになった。その後は二度、一軍監督を務め、引退してもなおカープの顔として鯉党の支持を集めた。現場復帰を果たしたミスター赤ヘルは、今後も解説者として画面越しにプロ野球の魅力を伝え続けてくれるはずだ。

◾️ 山本浩二 Koji Yamamoto
広島県出身/1946年10月25日生/右投右打/外野手/廿日市高-法政大-広島/69年入団-86年引退

【表彰・獲得タイトル・記録】
首位打者(75年)/本塁打王(78年、80年、81年、83年)/打点王(79年、80年、81年)/最多出塁(79年、80年、83年)/最優秀選手(75年、80年)/ベストナイン(75年、77年、78年、79年、80年、81年、82年、83年、84年、86年)/ダイヤモンドグラブ賞(72年、73年、74年、75年、76年、77年、78年、79年、80年 、81年)/日本シリーズ優秀選手賞(84年)/日本シリーズ敢闘賞(75年)/月間MVP(75年8月、78年8月、80年6月、83年4月、86年4月)/オールスターゲームMVP(75年 第1戦、79年 第3戦)/広島県民栄誉賞(87年)/野球殿堂競技者表彰(08年)