2021年に、広島アスリートマガジンWEBで反響が大きかった記事をお送りする「過去記事セレクション」。今回は、カープ投手王国の中で左腕エースとして活躍した川口和久のドラフト秘話ついての記事をお送りします。(公開日2021年10月)

1980年ドラフト1位で広島に入団し、100勝以上を記録した川口和久

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 10月11日に行われた2021年ドラフト会議で、カープは即戦力として期待される左腕投手・黒原拓未(関西学院大)を1位指名した。今回のドラフトでは2度1位抽選を外したものの、いずれも即戦力左腕だった。さらに2位指名では三菱重工westの左腕・森翔平を指名するなど、左腕獲得にこだわった。

 カープの過去10年のドラフトで2位までに左腕投手を指名した選手を振り返ると、2020年2位の森浦大輔(天理大)、2016年2位の高橋昂也(花咲徳栄高)の2人。1位指名になると、2007年の大学・社会人ドラフトの篠田純平以来となる。

 また歴代のカープドラ1左腕で最も勝利数をマークしているのが、1980年ドラフト1位の川口和久(デュプロ)だ。ちなみにこのドラフトでカープは原辰徳を1位指名しており、外れ1位として川口を指名した。投手王国と呼ばれた80年代〜90年代前半、川口は左のエースとして活躍し、広島時代に131勝をマークしている。

 カープドラ1左腕で最も勝ち星を挙げた男はいかにして指名されたのか? ここでは、長年カープスカウトを務めた故・備前喜夫氏が本誌で語っていた、川口獲得についてのエピソードを紹介する。

◆“四球を与えるが三振で切り抜ける”投手

 私が川口を初めて見たのは、彼が高校1年生のときでした。「鳥取にすごく球が速い投手が一人いる」。そういう情報を手にした私は、すぐに鳥取に行ったことを覚えています。そして、川口と出会ったのです。

 高校に入学したばかりの川口は、たしかに球が速く、上級生にも決して退けをとらないピッチングをしていました。加えて長身だったこともあり、球に角度がついていたため、バッターはかなり打ちにくかったと思います。

「1年生でこれくらいの球を投げられるなら大したものだ。これは面白い投手」。

 川口の球を初めて見たとき、このような印象を持ちました。ただ、コントロールに目を向けるとひどいありさまでした。例えば、キャッチャーが真ん中に構えていても、そこに行く球は10球のうち2~3球程度。ひどいときは1球も行くことはありませんでした。それを見たときは「これは大変だな」という思いを抱かざるを得ませんでした。

 それから学年が上がるたびに何度か川口を見に行きました。徐々に体が大きくなっていったことで、最大の武器であるストレートの球速は、見るたびに速くなっていました。スピードガンで計ったわけではありませんが、私の感覚では140km以上は出ていたと思います。

 なぜ川口の球速が上がったのか。それは、持って生まれた天性のものももちろんあったでしょう。しかし、それと同時に、野球部の橋本謙監督が近くにあった鳥取砂丘やグラウンドで毎日毎日ランニングをさせたことが大きな要因だと思います。ピッチャーにとって下半身の強さというものは絶対に必要なものですから、その強化を怠らなかったことで川口の球速はグンと増していったのでしょう。しかし、課題としていたコントロールは相変わらずで、私が見た試合で、四球を与えなかった試合はありませんでした。

 コントロールは不安でしたが、彼の投げる球の威力は、それを上回る魅力を持っていました。そのため、カープは1977年のドラフトで、川口を指名する方向に動いたのです。しかし、川口の反応がよくありませんでした。どれだけ粘り強く声をかけても「プロでやっていく体力がまだ備わっていない。自信がない」と言い、指名を許可してくれることはありませんでした。

 高校卒業後、川口は社会人のデュプロへ進み、その翌年、私はスカウトを辞め二軍監督に就任しました。そのため、社会人で川口がどのような活躍をしたのかはよく知りません。

 川口がデュプロを­経てカープに入団したのは1981年でした。当時も私は二軍監督として現場に残っていたため、高校のときとは違う形で川口と再会することになりました。「社会人の3年間でどれくらい成長したのだろうか」。そんな気持ちを持って彼の投球を久しぶりに見たのを覚えています。球は高校時代よりもさらに速くなり、キレも増し力強くなっていました。しかし、コントロールはというと・・・少しはまとまるようになっていましたが、まだまだといった感じでしたね。

 川口は1年間ファームで、体作りと共に、持ち味であるボールの球威を殺さずにコントロールをつけるトレーニングに励みました。そしてプロ2年目の7月に一軍に上がり、“四球を与えるが三振で切り抜ける”川口らしい投球でプロ初勝利をマーク。この年、一軍で4勝を手にしました。

 北別府学や大野豊のように完成されたピッチャーではありませんでした。しかし、荒削りながらも打者からいくつもの三振を奪う投球は、今も私の心に残っています。