2022年の幕が上がった。昨年はカープ、サンフレッチェ共に、思うような結果を残せなかったが、若手が台頭するなど、未来への希望を抱かせてくれる戦いを見せてくれた。また、東京五輪が開催されるなど、スポーツがおおいに盛り上がった一年になったと言えるだろう。

 広島アスリートマガジンWEBでは、これまでカープやサンフレッチェをはじめ、広島のスポーツの魅力を伝えてきた。そこで、昨年特に反響の多かった記事を振り返り、2022年のスタートを切る。

 ここでは、時代を彩ったカープ選手の足跡を背番号と共に振り返る。今回は、カープの歴史がスタートした1950年以来、1年もブランクなく歴史を刻んでいる背番号「37」を取り上げる。(2021年6月2日掲載)

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2014年ドラフト1位でカープに入団した野間峻祥選手。走攻守揃った選手だけに、今季の活躍に期待がかかる。

◆リーグ3連覇を果たした名将が現役時代に纏った番号

 佐賀・鳥栖高校で活躍し、1986年のドラフト会議で3位指名を受けての入団で「37」を着けたのが、緒方孝市だ。プロ2年目の1988年に初めて一軍出場し、アメリカへの野球留学も経験。1991年には日本シリーズに先発メンバーで出場した。

 才能が開花したのが、前田智徳の負傷もあってレギュラー定着を果たした1995年。47盗塁で盗塁王を獲得し、シーズン後半には10試合連続盗塁も記録。このセ・リーグ記録はいまだに破られていない。このシーズン限りで背番号を「9」に変更。

 以後の経歴は、背番号「9」のコラムで詳述しているが、その後も盗塁王を複数回獲得しただけでなく、走攻守すべて揃ったカープらしい選手として活躍。“ビッグレッドマシン”と呼ばれた超強力打線の一角を占めた。

 また2009年の現役引退後は、背番号「79」を着けてコーチに就任。2015年には監督に就任し、翌2016年には25年ぶりのリーグ優勝を実現。そこからリーグ3連覇を果たした名采配は、カープ史に深く刻まれることになった。

◆「アンパンマン」の愛称で親しまれるスラッガー

 以後、ドラフトを経ての入団組としては、7位の岡上和典(2006年のみ「岡上和功」に改名)が2001年入団。大学・社会人4巡目指名の松山竜平が2008年入団と続く。

「アンパンマン」の愛称で親しまれた松山は鹿屋中央高から九州国際大で活躍。初年度の2008年は4月下旬に一軍昇格を果たしたものの、代打で2試合のみの出場に留まった。なかなか浮上できず、再びの一軍昇格は2011年。チームの連敗を10で止めるプロ初本塁打を放つなど要所で働き、68試合出場、3本塁打と成長を見せた。

 以後は長打を持ち味とするスラッガーとして活躍し、前述の緒方監督時代には、2016年に25年ぶりのリーグ優勝を決める決勝本塁打を放ち、翌2017年にはキャリアハイの14本塁打、77打点を記録。2018年には初めて規定打席に到達し3割・2ケタ本塁打をマークし、リーグ3連覇に、特に打撃面において大いに貢献した。

◆「37」を受け継いだ期待のドラフト1位

 2014年限りで松山の背番号が「44」に変更され、2015年に、「37」史上初のドラフト1位入団選手となったのが、現在も持ち主である野間峻祥。その1位指名は、直前に一軍監督に就任した緒方監督の推薦だったことから、入団とともに監督のキャリアスタート時の「37」を受け継いだ。

 ルーキーイヤーの2015年には2月のオープン戦初戦にスタメンで出場し、本塁打も放つというド派手なスタートを切ると、オープン戦での守備・走塁が評価されて開幕一軍入り。4月には公式戦初本塁打も放ち、リーグ2位の6三塁打、リーグ4位の6捕殺など非凡なところを見せた。

 前述のリーグ3連覇の3年目にあたる2018年には2年ぶりに開幕一軍入りし、途中負傷もありながらも126試合に出場。自身初の満塁ホームランを放つなど大ブレイクし、リーグ優勝にも貢献した。

 しかし昨季から出場機会が減少しており、チーム随一の俊足である野間の復調が、チームが目指す機動力野球を取り戻すきっかけになることを願うファンは多い。

 こうして見ると、背番号「37」の歴史には、この番号とともにキャリアのスタートを切った緒方孝市の影響が色濃く見て取れる。俊足・巧打・好守とタイプ的にも共通点の多い野間にも、緒方に並ぶ、いや超えるほどの活躍を期待したいところだ。

【背番号『37』を背負った主なカープ選手】
西沢正次(捕手/1970年-1974年)
緒方孝市(外野手/1987年-1995年)
岡本和典(内野手/2001年-2007年)
松山竜平(外野手/2008年-2014年)
野間峻祥(外野手/2015年-)
※初めて背番号を付けたシーズンのポジションを表記。