2021年11月12日、カープ初優勝時の監督を務めた古葉竹識氏が、85歳でこの世を去った。11年間“赤ヘル軍団”の指揮官を務め、4度の優勝、3度の日本一に導いた球史に残る名将だ。

恩師・古葉竹識氏について語る山崎隆造氏。

 ここでは、古葉監督の下で投手王国、機動力野球を体現した2人の教え子に恩師との思い出を聞いた。今回は、古葉監督時にドラフト1位でカープに入団し、高橋慶彦と共にスイッチヒッターとして機動力野球を展開した山崎隆造氏の言葉をお送りする。

◆発想力の豊かさがものすごくある方だった

 引退後もOB会で毎年お会いしていましたが、いつも優しい笑顔で「頑張ってるか?」と声をかけていただいていました。最後にお会いさせていただいたのは、コロナ禍になる前でした。訃報を知ったときは、言葉がありませんでした。

 17年間現役としてプレーをさせていただきましたが、現在まで野球に携わることができている原点を作ってくれたのが古葉さんだと思っていますし、私にとっては大恩人です。古葉さんとの出会いがなければ、今の自分がなかったと言い切れるくらいの存在です。

 振り返ってみれば、初めてお会いしたのはプロ入りした1977年のことです。当初は『カープが初優勝した時の監督』というイメージを持っていましたが、寡黙で口数が少ない方で、眼力が強い人という印象でしたね。

 私にとってプロ野球界で生き延びるきっかけの1つとなったのが、スイッチヒッターへの挑戦でした。それを進言してくれたのが古葉さんでした。

 当時、高橋慶彦さんがスイッチヒッター1号という形で挑戦し、一軍で活躍され始めた頃に私は入団しました。高橋さんが苦労してスイッチヒッターの練習をしている姿も見ていました。

 私は走る事に関しては自信を持っていましたが、打つことに関しては『どうにもならないな……』と思っていた状態でしたので、古葉さんからの進言に対して「挑戦させてください」と二つ返事でした。結果的にスイッチに挑戦したことで左打ちの感覚を右打ちに活かすこともできましたし、結果を残せるようになりました。

 そしてもう一つ、私という選手が生かされたのが、内野手から外野手にコンバートされたことです。1980年代当時、複数ポジションを守れるユーティリティープレイヤーはあまりいなかったのですが、発想力の豊かさがものすごくある方でした。古葉さんの数々のアイデアに私は乗せてもらったと思っています。

 古葉さんは機動力野球を推進していましたし、私が足が速いというだけで、古葉さんの考える野球のピースをハメようとしてくれたということでしょうね。

 采配面で印象的なのは「ボールは1つしかない。そこから目を切るな」と言われたことです。そこから集中力の大事さであったり、気を抜けない感覚を養っていけました。野球にミスは付きものですが、ケアレスミスやつまらないミス、準備不足のミスに対してはものすごく厳しい監督でした。

 現役時代は簡単に口を聞けるような存在ではありませんでしたが、引退後に忘れられない出来事がありました。古葉さんが東京国際大の監督時代、実際に大学にお伺いしてお会いさせていただく機会がありました。

 そこで「久しぶりだな~」と喜んでくれました。その後、監督自らが「ヤマ(山崎隆造)ここは本当に施設がいいんだ」と大学の敷地内を古葉さんの運転で私を助手席に乗せて案内してくれたんです。現役時代には絶対に考えられない時間ですし、恐縮しきりでしたが、私にとって夢のような時間を過ごせました。本当に良い思い出となっています

 今、古葉さんには、ただただ「ありがとうございました」と。僕から言えるのはその言葉に尽きます。