広島アスリートマガジンWEBでは、これまでカープやサンフレッチェをはじめ、広島のスポーツの魅力を伝えてきた。ここでは、2021編集部セレクションとして、昨年特に反響の多かった記事を振り返る。

 今回は、時代を彩ったカープ選手の足跡を背番号と共に振り返る企画。試合終盤を引き締めるブルペンの砦、背番号「20」を取り上げる。(2021年2月8日掲載記事を一部編集)

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プロ1年目から守護神として活躍し、新人王を獲得した栗林良吏。

 偉大な選手がつけていた背番号を受け継ぐということは、光栄であるとともに重圧を伴うことでもある。場合によっては、その重圧が選手生活に影響を及ぼしてしまうこともあるだろう。だが、それに負けずにしっかりと成績を残し、その番号をさらに大きなものにする例も存在する。

 カープで言えば『20』がまさにそういった背番号だ。偉大な先人とは言うまでもなく、球団初の200勝越えを達成した北別府学。そしてそれを受け継いだのは球団史上最多の165セーブを達成した永川勝浩だ。

 1950年の球団創設時から一貫して投手がつけている『20』だが、“初代”は1960年に西鉄から移籍した河村英文(63年に久文に改名)。移籍早々のアクシデントで負傷し、期待されたほどの活躍はならなかったものの、この年4勝のうち3勝を巨人から奪い、対巨人戦の切り札として名を馳せた。

 北別府の入団はそこから12年後の1975年。プロ3年目の1978年に10勝を挙げると翌1979年には17勝し、エースとしての地位を確立。ボール半個の出し入れができるという絶妙のコントロールを武器に活躍を続け、1982年には20勝、1986年は18勝で最多勝を獲得した。

 2度目の1986年は、北別府自身が最高のシーズンとして挙げた年だ。前述の最多勝のほか、最優秀防御率、最高勝率などのタイトルを総ナメにし、球団を4度目の優勝に導いてMVPも獲得。沢村賞、ベストナインも独占する圧巻の内容を残してみせた。

 その北別府が213勝を挙げて1994年に引退すると、そこから8年のブランクを経て『20』をつけたのが、球団初の自由獲得枠で入団した永川勝浩だ。亜細亜大時代から150キロの速球でスカウトの注目を集めていたが、この背番号提示には球団の期待が見て取れる。

 果たしてその期待に応えた永川は、翌2003年の初登板で初セーブを記録し、この年25セーブをマーク。新人としては球団最多という大活躍を見せた。一時不調に泣かされ中継ぎに降格された時期もあったが、2006年から抑えとして復活。2007年から2009年にかけては球団新となる3年連続30セーブを記録し、2009年には球団初、史上7人目の150セーブも達成した。

 2019年限りで引退した永川の後を引き継いだのが、翌2020年ドラフト1位で入団した栗林良吏だ。即戦力として注目された右腕は、チームとファンの期待に違わぬフル回転の活躍を見せる。

 シーズンを通して守護神として活躍し、山﨑康晃(DeNA)の新人記録に並ぶシーズン37セーブを達成。東京五輪では金メダル獲得に大きく貢献し胴上げ投手にもなった。

 「北別府さんや永川さんのように、チームの顔と呼ばれる選手にならないといけないと思っています。そして1.5倍増しのプレッシャーを感じています。このプレッシャーを良い方向に変えられるように頑張りたいですね」

 入団当時、背番号についてのインタビューでは、このように語っていた栗林。先人たちのプレッシャーに負けず、プロ1年目のシーズンを駆け抜けた背番号『20』は、見事、新人王に輝いた。