『10』に代表されるように、サッカー界においてもたびたび話題として取り上げられるのが、各選手の背負う背番号だ。ここではサンフレッチェ広島の選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

長身を生かした〝空中戦〟を得意とし、攻守にわたって活躍。サンフレッチェ鉄壁のDFラインの一角を担う荒木隼人。

◆チーム黎明期を支えたDFは、コーチ、監督を歴任する名指導者へ

 1992年9月6日、サンフレッチェ広島史上初の公式戦となった、ヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)の読売ヴェルディ(現東京ヴェルディ)戦。背番号『4』をつけてDFの一角で先発出場したのは、上野展裕だった。

 早稲田大卒業後に日本サッカーリーグの全日空でプレーし、サンフレッチェの前身であるマツダに移籍。高い守備力を武器にヤマザキナビスコカップでは8試合に出場したが、翌1993年からのJリーグでは出場機会がなく、1994年限りで現役を引退した。

 Jリーグでは指導者としての実績が豊富で、1995年からはサンフレッチェで育成年代のコーチや監督、トップチームのコーチを歴任。その後も多くのクラブで指導の現場に携わり、2014年に監督に就任したレノファ山口では、1年目にJFLからJ3、2年目にJ3からJ2と、2年連続で昇格させる手腕を発揮している。

◆あらゆるカテゴリーで活躍。いまなお現役を続けるタフマン

 上野はDFだけでなくボランチでもプレーしたが、同様の持ち味で長年にわたって活躍したのが、固定背番号制となった97年から背番号『4』を背負ったMF桑原裕義だ。

 地元の広島県出身で、県立広島工高から大阪体育大を経て、1994年にサンフレッチェに加入。1995年からボランチや3バックの一角などで定位置をつかみ、主力としてチームを支えた。

 2003年限りでサンフレッチェを離れた後も複数のクラブでプレーし、Jリーグだけでなく、JFLや、その下の地域リーグでもプレーした。最後にJリーグでプレーした2011年は10月に40歳となったが、当時J2のギラヴァンツ北九州でリーグ戦33試合に出場。さまざまなカテゴリーでの息の長い活躍は特筆すべきものだ。