2005年から12年間をサンフレッチェで過ごし、数々のゴールとタイトル、あふれるクラブ愛でいまも多くの人々に愛されている佐藤寿人氏。共に紫のユニホームを着たチームメイトがピッチ上で見せた才能、意外な素顔などを連載『エースの証言』で振り返っていく。

現在もサンフレッチェの主軸として活躍を続ける青山敏弘

【青山敏弘・前編】トライしてほしいことを練習や試合で伝えていった

 初めてトシと一緒にプレーしたのは、僕がサンフレッチェに加入した2005年のグアムでのキャンプ。試合形式のメニューで同じチームになったんです。

 当時はプロ2年目で、きれいなフォームの良いキックをするなというのが第一印象でした。ただ、ほとんど話はしなかったです。そのときサンフレッチェには僕と同い年の選手が7人いて、あまり良くないことですが、彼らと一緒にいる時間が長く、若い選手と話す機会は少なかったのです。5月にトシが左ヒザを負傷してリハビリ生活になり、さらに絡む機会が減りました。のちにトシから「寿人さんは最初、全然話してくれなかった」と言われたんですけどね(笑)。

 トシが復帰した2006年も、当初は同じような関係でした。それが変わったのは、4月に小野剛監督が辞任し、6月にミハイロ・ペトロヴィッチ監督(以下ミシャ)が就任してから。リーグ中断期間中のキャンプで、トシのプレーがすごく良かったんです。ミシャが来る前は全体的に運動量が少なく、僕は中盤に走れる選手が必要だと感じていたので、「そのまま良いプレーを続けてくれ」「評価が変わらないでほしい」と思っていました。

 定位置をつかんだトシと、中断明けの7月から共に先発出場するようになりましたが、最初から良い関係性でプレーできたわけではなかったです。初めてレギュラーでプレーするトシは、どうしてもミスをしたくないと考えるので、あまり無理をしない。トライしてほしいことを練習や試合で伝えていきましたが、それでも、かなり時間がかかりました。

 僕のキャリアの中で、最も多くのことを要求した選手です。若くて吸収力もあるので、応えてくれると思っていました。こういうとき、4歳年上で日本代表の僕の言うことが、全て正解のように思いがちですが、ミシャはフラットに見ていて、トシの判断の方が良かったら「お前が合わせなければいけないぞ」と示してくれました。一緒に答えを求めていく上で、僕にとってもよかったです。

 戸田和幸さんの存在も大きかったと思います。同じボランチで経験豊富な戸田さんは、トシに「全然ダメだよ」と言うなど厳しく、でも言葉には愛がありました。トシがその後、マル(丸谷拓也)などの後輩に厳しく接している姿を見ながら、戸田さんのようだと感じていました。(後編に続く)

◆青山敏弘(あおやま としひろ)
1986年2月22日生、岡山県出身。2004年に作陽高からサンフレッチェ加入。プロ入り直後は負傷離脱が多かったが、2006年のペトロヴィッチ監督就任を機にレギュラーに定着。現在も中盤の主軸として活躍を続けている。2015年のJリーグMVP。2014年には日本代表としてブラジルW杯に出場した。

◆佐藤寿人(さとう ひさと)
1982年3月12日生、埼玉県出身。2005年にサンフレッチェに移籍。3度のリーグ優勝に貢献し2012年にはMVPと得点王を獲得。2020年限りで現役引退。通算のJ1得点数は歴代2位。引退後は指導者・解説者として活動中。