◆絶対王者に“握り”を見せて、3度目の偉業

 ところが翌1966(昭和41)年は0勝1敗、翌々年の1967(昭和42)年は2勝3敗と外木場はもがいた。そして同年オフ、翌1968(昭和43)年から監督に就任することが決まっていた根本陸夫ヘッドコーチに監督室にお呼びがかかった時にはトレード通告を覚悟したという。しかし、根本のかけた言葉はこれだった。

 「いいか、外木場。来年はローテーションの一角として期待しているから。そのつもりでいてくれ」

 この一言で覚醒のきっかけをつかんだ外木場は1968年、着実に白星を重ねた。

 迎えた9月14日の大洋戦。舞台となった旧広島市民球場は朝から靄。前日からの雨はやまず、朝の「9時か10時くらいまで降っていた」(外木場)が、一方で「あとから思えば、その天候が幸いして条件は揃っていた」とも。湿気が多かったことで「よく指にボールはかかるし、内野ゴロのイレギュラーはない。(靄で)外野はちょっと見づらかったでしょうけど、フライはほとんど打たれませんした」という。

 終わってみれば、外野フライ4(うち1つは外邪飛)、内野ゴロ7、奪三振16、114球の快投で完全試合を達成したのだ。数字をみても快刀乱麻のピッチングは容易に想像できるが、「(この日は)ブルペンで調子が悪く、コントロールに気をつけたのがよかったかも」というから分からないものだ。ところがだ、当時の市民球場は閑古鳥が鳴きに鳴いていた時代。この歴史的快挙を見届けたのはたったの4000人だったというから、もったいない話である。

 3度目のノーヒットノーランは1972(昭和47)年4月29日の巨人戦。場所は同じく旧広島市民球場だ。このときの巨人は「V9」の真っ只中。その絶対王者を向こうに回し、1四球、1失策の2人の走者を出しただけ。

「とにかく球が速かった」と長嶋茂雄が言えば、王貞治も「球の勢いに押されてしまった。かなわんよ…」。ついでにこんな話もある。今のようにサイン伝達(サイン盗み)に対する“しばり”などがユルかったこの時代、外木場の球種を三塁コーチスボックスからしきりに打者に教える牧野茂に対し、外木場は投球前にわざと球の握りを見せていたというから、なんとも漫画チックでカッコいいではないか。

 こうして達成されたプロ野球史上、沢村栄治と外木場義郎の“ただ二人”しか達成していない「3度のノーヒットノーラン」という大記録。だが、“カープびいき”的にその中身を紐解いてみると、沢村が3試合に許した走者は計15人(四球12、失策3)。対して外木場はわずかに3人(四球2、失策1)、繰り返しになるがうち1つは完全試合である。

 「どうじゃ! 凄かろうが、外木場は!」

 というオールドファンの、したり顔が目に浮かぶ。