フル稼働の活躍で100勝100セーブを達成 主要タイトルを総ナメにした球史に残る名右腕

球界を代表する投手として、平成時代のカープを支えた名右腕。07年の引退後は野球解説者として活躍し、15年シーズンから二軍投手コーチとして球界に復帰した。写真は県ナンバーワンの評価を受けていた浜田商高時代。

 生まれは自然豊かな島根県那賀郡金城町(後に浜田市と合併)。母一人子一人の家庭で育った佐々岡は、草野球や川釣りなど外で遊ぶのが大好きな活発な少年だった。当時、金城町では町内の6つの小学校が対抗で行う町内陸上が存在し、小学3年生のときに『ソフトボール投げ中学年の部』で優勝。37メートルは当時の新記録で、4年生のときは自身の記録を更新する43メートルで2年連続で優勝した。

 43メートルの記録は金城町が合併するまでの約30年、更新されることはなかった。小学6年生まで4年間連続で優勝するなど、肩の強さは当時から際立っていた。それでも当時の野球でのポジションは投手ではなく野手。中学時代は“俊足好守”が持ち味の一番サードが定位置だった。ただお世辞にも強いチームだったとは言えず、佐々岡自身も強豪の浜田高ではなく浜田商高への進学を選択した。

 入学当初も内野手を続けたが、夏の終わりに新チームになったとき上級生が4人だけとなった。3年生が抜けた後は、1年生を含めても投手経験のある選手は皆無。そこで当時の監督が適性を見極めるため、部員全員に投球を指示した。そこで肩の強さが目に留まり、思わぬ形で投手人生がスタートすることになった。

 この頃から身長も伸び始め、高2の夏には社会人野球の常石鉄鋼の合宿に参加する機会を得た。期間は2週間ほどだったが、この合宿が大きな転機となり球速が飛躍的に向上した。甲子園出場は果たせなかったものの、高3の夏前には12球団のスカウトが視察に訪れるまでに成長した。

 ところがテレビで見た同い年の桑田真澄、清原和博に衝撃を受け、「彼らには敵わない」と思った佐々岡は、指名あいさつに訪れたスカウトに断りを入れる。それでもプロに対する憧れは捨てきれず、オファーのあった3社の中から実家にほど近い広島のNTT中国に入社した。

 肩の負傷もあり入社3年目までは指名を見送られたが、ソウル五輪直後の日本代表選出がキッカケとなり再びドラフト指名が現実的なものとなっていった。野茂英雄、佐々木主浩、元木大介、古田敦也、与田剛、小宮山悟、石井浩郎、岩本勉、前田智徳、潮崎哲也など大豊作のドラフト会議となった89年。カープが1位で指名したのは、「カープ以外に指名されても入団しません」と公言していた佐々岡だった。

 そして北別府学、大野豊、川口和久ら“投手王国”と呼ばれた当時のカープで、期待のドラ1は初年度から13勝17セーブをマークしてみせた。

◾️ 佐々岡真司 Shinji Sasaoka
島根県出身/1967年8月26日生/右投右打/投手/浜田商高-NTT中国-広島/90年入団-07年引退

【表彰・獲得タイトル・記録】
最多勝利(91年)/最優秀防御率(91年)/沢村賞(91年)/最優秀選手(91年)/ベストナイン(91年)/最優秀投手(91年)/月間MVP(90年9月、91年5月、91年9月、96年6月、99年5月、00年4月)/セ・リーグ会長特別賞(90年)/広島市民表彰(08年)ほか