カープが球団創設26年目にして初優勝を果たした1975年、勝負強い打撃とパワーでチームを牽引した助っ人外国人がいる。

 山本浩二、衣笠祥雄らと強力クリーンアップを形成し、助っ人として初優勝に大きく貢献した、G.ホプキンス。来日1年目から結果を残した理由には、指揮官が求める役割を把握し、迅速に変化する“適応力”があった。

2013年5月25日、マツダスタジアムで行われた楽天戦で現役時代の背番号『6』を纏い、始球式に登場したホプキンス。

◆14年間のプロ野球人生で、あの試合以上のホームランはない。

 カープファンの間で今なお語り継がれる、伝説のアーチがある。

 1975年10月15日の後楽園球場・巨人戦。初優勝を決めた試合でホプキンスが放った3ラン本塁打は、Vを手繰り寄せる運命のアーチとなった。

「私はプロとして14年間野球をやってきましたが、その中であれ以上のホームランはなかったです。ホームランで勝利が100%決まるわけではありませんが、あの日だけは違いました。(3ランホームランが出たときに)我々は勝ったと確信しましたね。あの試合はなかなか緊迫した展開で、物凄い緊張感でした。私の自宅には、今でも、あの場面の写真がたくさん飾ってあります。それを見ながら、毎日『俺は素晴らしかったんだ』とつぶやいていますよ(笑)」

 ホプキンスがカープに在籍した期間は2年間と、他の助っ人外国人選手に比べて決して長くはない。しかし、あの日の後楽園で放った本塁打が、ホプキンスを“伝説の助っ人”に変えた。そして、悲願の初優勝を果たしたときの広島の街の風景は、助っ人の胸にも深く刻まれている。

「チャンピオンになった後の広島の街は最高でしたね。優勝パレードがすごかった。40万人の観衆だったように記憶しています。どれだけ広島の街がハッピーだったかは、想像以上のものがありました。人や街の幸せを見て、こちらも興奮しました。自分がその幸せの一部分にでも貢献できたかと思うと、とてもうれしかったです」

 1950年の初年度から優勝はなく、前年までは3年連続最下位と苦渋を舐めてきた。それだけに、1975年の初優勝が広島の街に与えた影響は大きかった。赤ヘル軍団の躍進は、地方都市で生活を営む人々に“諦めない勇気”を与えてくれた。

「カープは長く優勝できなかった歴史がありました。私は、テレビか何かの映像で、『カープが優勝したから、もう死んでもいい』なんていうカープファンを見たことがあります(笑)。アメリカで『ホワイトソックスが優勝したら死んでもいい』なんて言うファンにはなかなかお目にかかりませんでしたからね。やはり広島は、原爆投下という悲劇もありましたし、東京、大阪という規模の大きな都市でもありません。そういったところもあったと思いますね」 

《プロフィール》
ゲイル・ホプキンス
1943年2月19日生、アメリカ出身
ペパーダイン大-ホワイトソックス-ロイヤルズ-ドジャース-広島(1975-1976年)-南海(1977年)

1975年に当時のカープ監督であったジョー・ルーツに声をかけられカープに入団。パワフルな打撃で33本塁打、91打点をマークするなど初優勝に大きく貢献。1977年に移籍した南海を最後に現役引退。日本での3年間で360試合に出場し、打率.282、69本塁打、229打点を記録した。帰国後は兼ねてから目指していた整形外科医に転身。