真っ直ぐに駆け抜けた濃密な32年── 掛け値なし、魂の直球で真っ向勝負!

座右の銘は『弱気は最大の敵』。その言葉通り、マウンドでは鬼気迫る投球を見せた。彼が付けた背番号14は、時を経て大瀬良大地に受け継がれた

 津田恒実氏(以下、敬称略)が亡くなって、早いもので26年の歳月が流れる。カープでの実働期間は10年ながら、ケガや体調不良に悩まされ活躍したシーズンは限られた。それでも多くのファンの脳裏には、鮮明な記憶として彼の勇姿が刻み込まれている。代名詞は跳ねあがるようなフォームから繰り出される魂のストレート。原辰徳(元巨人)の左有鈎骨を粉砕した直球は、いまも語り草となっている。

 3年時の春夏に二度甲子園に出場するなど、南陽工高時代から注目を集める存在だった。その時点でドラフト上位指名候補に挙がるも、本人は社会人野球を選択。協和醗酵を経て、希望球団であったカープにドラフト1位で入団した。鳴り物入りで加入した津田は、一年目から期待に違わぬ活躍を見せた。先発として11勝を挙げ、球団初となる新人王を獲得。新人右腕の行く末は前途洋々と思われた。

 ところが2年目以降は中指の血行障害やルーズショルダーなどが影響し、年を追うごとに成績は下降していった。そこで首脳陣は配置転換を決意し、86年に津田を抑えに指名。このコンバートがズバリとはまり、5度目となるリーグ優勝に大きく貢献した。88年は肩を痛め救援失敗が目立ち『サヨナラの津田』と揶揄されることもあったが、翌年には最優秀救援投手を受賞。唸る直球を前にして強打者のバットは次々と空を切った。

 しかし90年には右肩、左膝靭帯の負傷が影響し、わずか4試合の登板に終わった。シーズン後には頭痛などの変調も見られるようになり、プロとして満足のいく練習もできなくなっていった。91年4月14日の巨人戦、リリーフとして登板したものの、もはや満足に投げられるような状態ではなかった。投じた球は、わずか9球のみ。1点のリードを守るどころか、一死も取れず降板を余儀なくされた。北別府学の勝利を消し負け投手となったこの一戦が、結果的に津田の最後の登板となった。

 ラスト登板翌日の検査入院で、体の変調の原因が判明した。病名は悪性の脳腫瘍。周囲に主要な神経が密集し、手術で摘出することは不可能な状態だった。その後、本人の意思で退団届が提出され、同年11月に受理され現役を引退。津田の病気をきっかけに一致団結したカープは6度目のリーグ優勝を果たすことになるが、肝心の彼の姿は歓喜の輪の中にはなかった。

 奇跡的な回復を見せることもあったが、92年の半ばあたりから病状は悪化した。そして年が明けた93年7月20日、家族にみとられながら静かに息を引き取った。32歳という若さだった。マウンド上では常に強気な投球に終始した津田も、最期は穏やかな表情を浮かべていたという。くしくも同日は東京ドームでオールスター第1戦が行われる日だった。悲報は球宴開幕のセレモニー直前、両軍関係者の元にも届いた。自身も5度出場した球宴の舞台、もっとも注目を集める舞台で、津田は関係者、そしてファンに別れを告げた。

◾️ 津田恒実 Tsunemi Tsuda
山口県出身/1960年8月1日生/右投右打/投手/南陽工高-協和醗酵-広島/82年入団-91年引退

【表彰・獲得タイトル・記録】
最高勝率(1983年)/最優秀救援投手(1989年)/新人王(1982年)/カムバック賞(1986年)/ファイアマン賞(1989年)/日本シリーズ優秀選手賞(1986年)/野球殿堂競技者表彰(2012年)/新南陽市民栄誉賞(1993年)