野球界のエリートといわれる道を歩み、2013年ドラフト3位でカープ入りを果たした田中広輔。プロ1年目から開幕一軍入りを果たすとショートのポジションに定着し、セカンドの菊池涼介とともに鉄壁の二遊間として、打っては一、二番コンビとしてリーグ連覇を支えてきた。

 東海大付相模高、東海大、JR東日本。プロの世界に足を踏み入れるまで、少し遠回りしたかもしれない。だが、着実に力をつけた6年間が無駄ではなかったことは、その後の田中自身が証明している。

 台頭著しい若手たちにポジションを譲る試合も増えているが、連覇を支えた田中に期待を抱くファンは多い。ここでは、入団直後の2014年に収録した田中の独占インタビューを再編集してお届けする。

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2014年、マツダスタジアムでインタビューに応える田中広輔。

◆“ミスター社会人”になるのもカッコイイと思った

―大学時代は、プロへの気持ちが強すぎて思うようにいかなかったと伺いました。具体的に、どういった部分が思うようにいかなかったのですか?

「なんだかもう、結果ばかりを気にしてしまっていました。チーム自体が強かったので、僕が打っても、打たなくても勝てるようなチームだったんです。だからこそ、その中でやっぱり打ちたいじゃないですか。それで自分の結果ばっかり追い求めるようになって、全然ダメでしたね。成績が良かったのも、大学3年の秋と4年の秋だけですもん」

―もちろんプロに行くためには4年間の結果も見られると思うのですが、特に大事なのは大学4年の春からだと思うんです。

「そうです、そうです。そのときは全然ダメで、最悪でした」

―大事な時期に結果がでなかったことに、ご自身の気持ちとしてはどうだったんですか?

「実は、大学の監督と約束をしていたんです。4年の春の段階で、すでに社会人のチームから声がかかっていたので、4年の春に結果が出なかったら社会人のチームに進むっていう約束だったんです。それで進んだのがJR東日本硬式野球部でした」

―進路を決めたあと、大学4年の秋には自己最高の打率.375を残して首位打者を獲得しました。

「いやーもったいないなって感じはしましたね(笑)。でもJR東日本は大きな会社だし、いいチームだったので、いいかなと思いました。結構、現実を見るタイプなんです、僕(笑)」

―打撃不振だった大学4年の春から秋にかけて、成績が大きく変わったと思うのですが、自分の中でどんな変化があったのですか?

「4年の春の約束があったので、秋は割り切りが出来ました。それに、大学4年の春に負けたんですよね。菅野(智之・巨人)も居たのに13年ぶりに大学選手権大会に出られなくて。そこで負けたのが一番大きかったですね。とりあえず勝ちたかったっていうのがあったんです。だから自分が打てなくてもチームが勝てればいいやって思うようになってから結果が出るようになりました」

― JR東日本野球部に入社後は1年目からスタメンで出場し、若獅子賞を受賞するなど『社会人野手No.1』として呼び名も高かったと思います。その中で、再び注目を集めはじめたのではないでしょうか?

「そうですね。しっかりやればプロに行けるチャンスはあるかもと思いながらやっていました。1年目に都市対抗で5試合連続無失策をやって、そこで守備に関しては自信を持てるようになったし、2年目の都市対抗が終わったあとに、悪いなりに結果がしっかりでたので手応えはありましたね。でもその反面で、ずっとJR東日本で野球をやるのも良いかなっていうのもありました。そのときは100%プロに行きたいと思う気持ちではなかったんです」

―それはどうしてなのでしょうか?

「社会人野球を1年経験して、JR東日本という会社の素晴らしさとか、良さが分かったので、そのまま社会人に骨を埋めても良いかなと思っていました。野球の質もそうですし、レベルも高いので、社会人野球そのものが楽しかったんです」

―どの辺りに特に楽しさを感じたのでしょうか?

「僕も含めてですけど、大の大人が必死になってるんですよね。都市対抗野球とか日本選手権に出るには予選があるんですけど、予選を勝ち抜いたときに35、6歳とかの人たちが泣くんですよ。なんて言ったらいいのかな……とにかく熱いんですよね、社会人野球って。そういうのがいいなって思いました。“ミスター社会人”もかっこいいので、そうなるのもいいなって思っていましたね」

 =後編へ続く=

《プロフィール》
田中広輔●たなかこうすけ
1989年7月3日生、神奈川県出身
右投左打/171cm81kg
東海大付属相模高−東海大−JR東日本−広島(2013年ドラフト3位)
社会人1年目から都市対抗野球大会で若獅子賞を獲得。