10月20日に開催される、『2022年プロ野球ドラフト会議』。各球団スカウトの情報収集の集大成であり、プロ入りを目指すアマチュア選手たちにとっては、運命の分かれ道ともなる1日だ。

 カープはこれまで、数々の名スカウトたちが独自の “眼力” で多くの逸材を発掘してきた。ここでは、カープのスカウトとして長年活躍してきた、故・備前喜夫氏が語るレジェンド獲得ストーリー『コイが生まれた日』(2003年初出)を再編集してお送りする。

 今回は、逆氏名でカープに入団し、新人王にも輝いた山内泰幸氏の入団秘話を紹介。『UFO投法』という愛称で親しまれた名投手獲得の裏側とは。

◆「カープを逆指名してくれたときは、うれしい気持ちでいっぱいでした」

引退後は、2003年から2014年までカープで投手コーチを務めた山内泰幸氏。現在は野球解説者としても活躍している。

 私が初めて山内を見たのは、彼が尾道商高3年生のときでした。当時からあの独特のフォームで投げていた山内は、その年のドラフト候補選手に入っており、尾道まで彼のピッチングを見に行ったのを覚えています。

 初めて見たときの印象は『難しい投げ方をしているな』というものでした。

 左足を上げたときに右肘を張って一旦停止、そこから前に体重移動しながら腕を振る。驚くほど珍しいフォームで投げていました。しかし、球自体はそれほど悪いものではありませんでした。ストレートもある程度球速があり、力のある球を投げていたと思います。

 ただ、高校生の山内を、カープはこの年のドラフトで指名することはありませんでした。その理由は、2度目に山内を見に行ったときにあります。

 その日、山内の姿はグラウンドにはなく、気になった私は学校関係者に「山内はどこにいるのか」と尋ねました。すると、その方から「今は治療に行っている」と聞かされたのです。独特のフォームのため、普通の投手よりも負担がかかっていたのでしょう。肘の辺りを痛めてしまったようなのです。

 後日行われたスカウト会議で、私は山内について「肘を故障している」と話し、さらに「本人はプロではなく大学進学を希望している。だから今回は指名を見送った方がいいと思う」と報告しました。そして会議の結果、カープとしては、山内の4年後に期待することになったのです。 

 日体大に進学した山内は、大学通算31勝を挙げるなど首都リーグを代表するピッチャーへと成長を遂げました。そんな山内を見て、私たちカープは、1994年3月のスカウト会議で1位指名することを決定し、「今年のカープの目玉は日体大の山内で行きます」と『1位指名宣言』をしたのです。

 通常、3月の時点で指名選手を公言することはほとんどありません。しかし山内の場合は地元・広島の出身ということ、大学での活躍も目立っていたため、早々に1位指名を決めました。マスコミに発表し、他球団に手を引いてもらう目的もありました。

 1位指名宣言以降は、実家に行きお父さんと話をしたり、山内が母校の尾道商高に体育の先生として教育実習に来たときに出向いたりと、獲得に向けて最大限の努力をしました。そしてその努力が実り、ドラフト会議前に山内は「カープは小さい頃からの憧れだった」と球団初の『逆指名』を使って入団を決意してくれたのです。

 高校3年のとき、カープは肘のケガなどがあり『4年後に期待』と指名を見送りました。その選手が大学で成長し、4年後にカープ入団を決意してくれた。

 私にとっては、山内は(尾道商高の)後輩であり、高校時代から見続けてきた選手だっただけに、うれしい気持ちでいっぱいになったのを覚えています。

 =第9話に続く=

【備前喜夫】
1933年10月9日生〜2015年9月7日。
広島県出身。
旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987〜2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。

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