10月20日に開催された『2022年プロ野球ドラフト会議』。カープは事前の公表通り、苫小牧中央の斉藤優汰(投手)を1位指名し交渉権を獲得。新井監督初のドラフトは、見事、単独指名となった。
ドラフト会議は各球団スカウトの情報収集の集大成であり、プロ入りを目指すアマチュア選手たちにとっては、運命の分かれ道ともなる1日だ。カープはこれまで、数々の名スカウトたちが独自の眼力で多くの逸材を発掘してきた。
ここでは、かつてカープのスカウトとして長年活躍してきた故・備前喜夫氏がカープレジェンドたちの獲得秘話を語っていた、広島アスリートマガジン創刊当時の連載『コイが生まれた日』を再編集して掲載する。
今回は、1999年のドラフト3位でカープに入団し、2008年からは“4番”として活躍。通算153本塁打を放った栗原健太の入団秘話をお送りする。
◆魅力は圧倒的なパワー。“球を遠くに飛ばす”才能を感じました
「生まれたときの体重が4500gもあって、健康で太く長く育ってほしいという想いを込めて『健太』という名前を付けました」と、お母さんの順子さんが教えてくれたことを覚えています。
『健太』とは2000年に日大山形高校からドラフト3位で入団した栗原健太のことです。
私が初めて彼を見たのは高校3年生の夏の甲子園予選だったと思います。2年生の頃から彼に注目していた当時の東北地区担当・苑田スカウトから『日大山形高に右中間にも大きな打球が打てる選手がいる』という話を聞いて山形まで見に行きました。
カープは当時、江藤智(元広島・巨人など)や金本知憲(元広島・阪神)といった長距離バッターの後継者が育っておらず、その素質を持った選手を早く獲得しなければいけませんでした。そういう中で白羽の矢が立ったのが栗原でした。
私たちスカウトは選手のバッティングを見ればこの選手が長距離バッター向きなのか、それとも中距離バッターなのかわかります。栗原のバッティングを見たときの印象は、スイングスピードもさることながら長距離バッター特有の「大きなスイング」をしているというものでした。球を遠くに飛ばすという技術は教えられてできるものではなく、生まれ持った才能ですが、栗原にもその才能を強く感じました。
栗原の魅力は何と言ってもその圧倒的なパワーにあります。
握力は左右とも70kg以上でベンチプレス120kg、スクワット330kgと聞きましたから、高校野球界ではトップクラスの数値です。そのパワーに加え、あのスイングですから何度もバックスクリーンへぶつけたり場外へ打球を飛ばすことができたのでしょう。しかし、あまりにも場外へ打球を飛ばすので「そんなに打たなくてもいいじゃないか」と言われたこともあるようです。
打球の質に関して言えば、金本のように力強いライナー性の打球ではなく、江藤のような大きな放物線を描く滞空時間の長い打球でした。ですから、どちらかというとスラッガーではなくホームランアーチストと呼ばれるタイプでしょう。そういうことをふまえると、彼が入団当時に『江藤二世』と呼ばれたことにもうなずけます。
ただ、まだ高校生ということもあり荒削りな部分もありました。しかし、それはプロに入って修正すればいいことですし、彼にはそれ以上に、限りなく大きな可能性を感じたので指名することを決めました。
栗原と直接話をしたのは広島で行われた新入団発表のときです。そのときはまだ緊張していたせいかあまり話をしませんでしたが、素直で野球一筋でやってくれそうだなという印象を受けました。また、お母さんから実家が焼肉店を経営しているということを聞いたので、それでこんなに身体が大きくなったんだなと思いました。
『江藤二世』と呼ばれ入団した1~2年目は、左肩の脱臼やその手術などで不本意なシーズンを過ごしてしまいました。しかし、3年目の2002年は8月31日に1軍昇格を果たすと、9月5日の阪神戦で藤川球児(阪神)から左中間へプロ入り初ホームランを放ちました。初ヒットが初ホームランということで『栗原らしいな』という印象を持ちました。また、この年はウエスタンで打点王を獲得し、釜山アジア大会(銅メダル)にも6番ファーストとして全試合に出場するなど国際経験も積みました。そういう意味では、3年間で最も充実した1年だったと思います。
翌2003年もファームで2年連続打点王、初の本塁打王の2冠を獲得しました。そして圧巻だったのが一軍昇格後の10月10日の阪神戦から、12日、13日のヤクルト戦で3試合連続本塁打を放ったことです。彼がプロの投手からホームランを打つことができるようになったのはストレートに負けないスイングができるようになったからでしょう。
高校からプロ入りした選手にとって最初の壁は木のバットです。これは金属と違い、芯に当たらなければ打球は飛ばないので、まずはその感覚を身につけることがプロとして成功するための第一歩です。2つめの壁はスピードです。高校生とプロでは、球のスピード、スイングスピード、判断のスピードなど、全てにおいて大きな差があるので、これについていけるようになることが重要です。2003年は栗原にとって4年目のシーズンでしたし、その2つに慣れたことが、この結果に繋がったと思います。
2004年には、一軍で90試合に出場し打率.267、97安打、11本塁打、32打点という結果を残したました。栗原を見て成長したと感じることはバッティングの技術もさることながら、追い込まれても必死で食らいついていき『自分がなんとかしてやろう』という気持ちが見られるようになったことです。一軍の選手にはこの気持ちが必要ですから、栗原にもこれが見られるようになったことは非常にうれしいことです。
【備前喜夫】
1933年10月9日生〜2015年9月7日。
広島県出身。
旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987〜2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。