新井貴浩監督の就任会見から約2カ月が経った。秋季キャンプも始まり、来シーズンへの期待はますます高まるばかりだ。広島アスリートマガジンでは、これまで、現役時代〜引退後にかけて新井監督の声をファンへ届ける企画記事や単独インタビューを掲載してきた。ここでは、2019年1月号『永久保存版 新井貴浩』より、記事の一部を再編集して掲載する。

 若手時代、一度は4番を任されながらも結果を残すことが出来なかった。 しかし、その後不屈の闘志で結果を残し、長年4番として活躍してきた。

 幾度も修羅場を乗り越えてきた、背番号25が語る『4番論』とは。

2022年、監督就任直前に広島アスリートマガジンの取材に答える新井貴浩監督

◆チームの勝敗を背負えるメンタリティーを持った選手、それが4番

 僕は入団後4年間、完全なレギュラーではなかったのですが、毎年成績も少しずつ良くなっていました。金本(知憲)さんが移籍した翌年の2003年に当時監督だった(山本)浩二さんに「4番でいくぞ」と言われて、初めて4番を打つことになりました。

 それまで数字的な面を見れば右肩上がりだったので自分の中で『4番になったとしても、できるだろう』と甘い考えを持っていました。周囲の反応を見ても、それまでは打てば『若手の新井、いいぞ!』と言われましたし、打てなくてもあまり厳しい言葉を言われることはありませんでした。ですが、いざ4番になって、打てなくるとメディアの反応はこれまでとは全く違うものになりました。自分自身も感じたことがない状況になり、4番の僕が打てないで負けるケースが出てきたときに『まずいぞ』と少しずつ焦る気持ちが出てきました。

 もちろん、当時は技術的なものもついていってなかったと思いますし、4番としての実力がなかったということです。結果的に初めて4番を打たせてもらった2003年はダメで、2004年も4番を打ったのは数試合でしたし、2年間は結果を残せませんでした。 再び2005年に4番を任されましたが、2005年は、『今年ダメなら、この先自分のポジションが決まってしまうぞ』と思いシーズンに入りました。

 開幕戦ではベンチスタートで、当時サードのレギュラーはラロッカ(元・広島、ヤクルトなど)でした。ですが、開幕2戦目でラロッカがケガで離脱したんです。そこで僕に出番が回ってきて3戦目でホームランを2本打つことができて、そこから使ってもらえるようになりました。夏以降に4番として試合に出る機会は増えましたが、あの当時は『自分が4番だ』という意識は強くなくて、『一選手として、もう失敗できない、絶対結果を出さなければ』と思って必死でした。それでなんとか結果を残すことができました。

 今思えば、あの年は僕の野球人生で転機となるシーズンだったと思います。 2006年にマーティー(ブラウン)が監督になって、本格的に4番を任されるようになりましたが、2年連続で100打点をマークできました。それが達成できたのも、当時マーティーから「野球はホームランが醍醐味のひとつではあるけど、あくまでも点を奪い合うスポーツ。だからこそ4番として100打点を目標にしてやってくれ」と言われたことがきっかけでした。今もそう思っていますし、このように考えられるのもマーティーのおかげです。