新井貴浩新監督のもと、新たなチーム人事が発表された。2015年に新井監督とともに広島に復帰し、チームを25年ぶりのリーグ優勝へと導いたOB・黒田博樹氏の球団アドバイザー就任である。
1996年にドラフト2位(逆指名)で入団した黒田氏は、2008年にドジャースへ移籍すると、以降、2014年までMLBで活躍。2015年の広島復帰は、日本のみならず大リーグ関係者からも大きな注目を集めた。
これまで広島アスリートマガジンでは、数々の黒田氏独占インタビューを掲載してきた。ここでは、2009年、大リーグ1年目を迎えた黒田博樹氏のインタビューをお届けする。
コミュニケーション面での不安、異国の地に飛び込み野球をすることの難しさ……メジャーで初めて迎えたオフ、本誌に貴重な経験を語ってくれた黒田。妥協せずに、常に挑戦をし続けるカープの背番号15の姿がそこにあった。
◆足を踏み入れたメジャーリーグ
—メジャーでの初のシーズンを振り返っていかがですか?
黒田 ひと言で言うと苦しかったですね。日本と違う環境で全てが初めてのことだったので、精神的にもきつかったです。英語が全然分からず、コミュニケーションを取るのも難しかった。ちょっとしたことでいちいち通訳を呼べないし、選手と冗談を言い合ったりできないのはしんどかったですね。
—最初にマウンドに立ったときはどのような感慨を受けましたか?
黒田 一番緊張したのは、シーズンの開幕戦よりも、オープン戦の最初のマウンドに立ったときでした。
—間違えて両方右足のスパイクを持っていってしまったとか。
黒田 そうですね(笑)あれは緊張したからなのかどうかは分かりませんね。どこでどうなってたのか自分ではよく分からないですが、見た瞬間はビックリしましたよ。
—あの頃の自分を振り返ってみてどうですか?
黒田 僕という投手のことを周りは全然知らないわけですが、その中で投げていかないといけないということと、ものすごく大型の契約を結んでもらっていて、その期待に応えなければいけないというプレッシャーをすごく感じていましたね。だからこそ、オープン戦でしっかりと自分の投球スタイルをみんなに見せていくことが大事だと思っていました。
—首脳陣や選手などチーム内の人間に助けられることはありましたか?
黒田 チームとしては当然勝っていかないといけないので助け合いというのはありますが、やっぱり最後は自分の力でいかに結果を出していくのかという世界。周りに頼ってばかりではダメですし、最後は自分がマウンドに立って球を投げるわけですから、そういう気持ちはいつも強く持っていました。
—メジャーの打者と対戦してみてどんな印象を受けましたか?
黒田 メジャーでトッププレーヤーというと、本当にすごい打者ばかりでした。スイッチでも両方の打席からホームランを打てる打者もいたし、打てて走れてという打者もいますし。世界のトッププレーヤーが集まってきているんだな、ということは痛感しましたね。
—カープにいる頃はストレートは素直な回転のものを投げていましたが、向こうでは微妙に変化させていました。
黒田 そうしないと、あのレベルの打者を打ち取るのは無理ですから。日本では捕手のミットにきれいに吸い込まれるイメージでやっていましたが、アメリカでは全くその逆で、捕手の取りにくい球を投げるように練習しました。日本でやっていたスタイルで抑えられるならそのままやっていたと思いますが、やはり自分の中で『このままじゃ通用しない』というのを肌で感じて、1戦1戦の中で足りないものを補っていきました。本当に周りを見る余裕はなく、1年間がむしゃらに頑張っていたような気がします。