◆プロのユニホームを着た喜び
— これまでの野球人生を振り返りたいと思います。アマチュアのときはどんな選手だったのですか?
「厳しい練習をする高校(横浜高)に入ったのですが、練習に付いていくのにいっぱいいっぱいの選手でしたね。野球での打つこと、投げることの一つひとつをとったら誰にも負けないトップレベルでやっていましたが、それを鍛える訓練の段階で厳しいところがあって、それでダメになってしまったというか。試合で野球をやる前に練習で自分が負けてしまっていたという時代が多かったですね。だから、練習に対する努力を人一倍しなければついていけなかったと思います。ぜんそく持ちということもあり、走ったら呼吸ができず苦しい時期もあって、そういうのをなんとか乗り越えて今に至りました。練習が苦手というのは、広島カープの道からそれているのかもしれませんけどね」
— 高校時代は外野手だったと聞いています。
「投手もやっていたのですが、野手の方がメインでした。僕は小さい頃からずっとエースにはなれずに今に至ったんです。高校のときも3番手か4番手にいて、大学のときも決してエースではなく、社会人でも同期で僕の他に素晴らしい投手が2人いてエースは僕ではありませんでした。結果的に、エースという時代が一回もなかったですね」
— プロ野球でそういう経歴の投手は珍しいですね。
「そうですね。何かが足りなかったのは確かです。ただ、これが自分なのかなあ、とも思いますね。それでもプロには絶対になれると思ってやっていましたし、プロ野球のユニホームに袖を通せることが決まったときの喜びはすごく大きかったですね」
— 拓殖大を経てトヨタ自動車で3年を過ごし、1995年にカープに入団しました。社会人2年目にもプロの数球団から高い評価を受けていたということでした。
「高校や大学のときにもプロのスカウトの方には見に来て頂いていて、社会人2年目のときは会社の反対があってプロへは進みませんでした。まあ、僕がひと言強く言えば入れていたのかもしれませんけどね。ただ、全てが一歩ずつ遅い人生を歩んでいたおかげで41歳までできたのかなとも思います。社会人2年目のときは確かにアマチュア日本代表にも入っていましたし、左投手で150キロくらい投げる投手はなかなかいないので高い評価をいただいていたんですが、社会人3年目のときに左肩を痛めてしまったんです。まともに投げられない時期がずっと続いたのですが、ちょうど1994年のオフに川口さん(和久、元広島・巨人)がFAで抜けられて、カープのスカウトの方が急きょ僕を欲しいと言って下さいました。ほとんどの球団がお断りのところを賭けに出てくれたというか、4位という指名を頂くことになりました」
— プロに進んだのは25歳のことで、すでにお子様もいらっしゃいました。不安はなかったのですか?
「そうですね。左肩が治れば絶対にやっていける自信はあったんですが、治るかどうかの不安や痛みへの怖さはありました。同期で全日本でも一緒だった山内(泰幸)が1位で入団して、彼の方がパッと活躍して新人王という素晴らしい功績を挙げました。でも負けたくない気持ちもあったし、ライバルというか、同期で入った選手が頑張っていたことで『俺も絶対出来る』『いつかは絶対先発ローテの柱、中心的存在になれる』と信じてやっていました」