新井監督1年目となる今季、新監督の誕生と共にカープファンを驚かせたのが、黒田博樹氏球団アドバイザー就任のニュースだ。2016年限りでユニホームを脱いだ黒田氏は、ドジャース、ヤンキースとメジャーリーグの第一線で活躍し、日米通算200勝を達成したレジェンド投手でもある。

 カープからメジャーへと羽ばたいた選手はこれまでに4人。ここでは、海を渡り活躍した選手たちの過去インタビューを再編集して紹介する。今回は、2009年にカープからメッツへ移籍した左腕・高橋建(現・カープ二軍投手コーチ)の引退直後のインタビューをお届けする。

(掲載は2010年11月号)

引退会見当時の高橋建コーチ。

◆一流へは、あと一歩だった

— 入団時の目標としては、どんなものを描いていましたか?

「入ったころは雑用のような仕事というか、左のリリーフというのはブルペンで何回も肩を作らないといけない仕事だったのでかなり大変でした。今みたいに分業制でもないですし、イニングと試合数のバランスが合わないくらいに投げていましたが、先発ローテの一角を勝ち取るまで頑張ろうという気持ちでやっていました」

— 当時は野村謙二郎監督や前田智徳選手など強力打線を看板としていました。

「『12球団で一番対戦したくないのはどこですか』と聞かれたら『カープ』と答えていたくらいなので、その打線が味方にいてくれるというのは心強かったですね。ただ、僕が入ってからFAなどで四番が4人くらい抜けていますし、今は軸がなかなかいない状況で戦うことになっていますが」

— 当時は優勝も目指せるチームでした。

「プロ2年目の1996年が11・5ゲーム差をひっくり返された年だったんですが、そのとき僕は二軍にいました。そこで初めてエースだったのかな(笑)。後半戦の優勝争いをしているときには一軍で頑張れたんですが、あの年に優勝を逃したのは大きかったような気がします」

— 余談ですが、この年の7月28日にはウエスタン・リーグで無安打無得点試合を達成しましたね。

「そうですね。あの試合では本当に運があったような気がします。9回1死で走者が一塁にいたんですが、ショートライナーを福地(寿樹、現・カープ二軍打撃兼走塁コーチ)君があの脚力を活かしたジャンプで捕ってくれて、いつもは暴投ばかり投げる彼が素晴らしい球を一塁に投げてくれて併殺で試合終了となりました。みんなマウンドに集まって喜んでくれたんですが、そのとき一塁を守っていた小早川(毅彦)さんは『何でお前らそんなにはしゃいでいるんだ』と。『建さんがノーヒットノーランをしたんですよ』と他の選手が言ったら、やっと『そうだったのか!』と言っていました。そこで初めて知ったみたいですね。その日は試合後の練習が免除になって、そういうこともあってみんなすごく喜んでくれましたね(笑)」

— その後は一軍に定着し、多くの登板機会を得ました。

「ただね、今のマエケンなんかを見ていると、あそこまでなりきれなかった自分がいるなと思います。もうひと踏ん張り、ふた踏ん張り頑張っていたら本当に一流になれたかもしれません。そこに片足は入れていたけど、両足を入れることができなかったことは、後悔というか残念に感じます。やっぱりきつかったというか、練習できる体力がなかったんでしょうね。シーズンでも最初から飛ばして前半戦では調子がよくても、後半は尻すぼみで終わってしまうシーズンが多いんですが、僕はそこまでしか持たなかったと受け止めるしかないですね」

— ぜんそくにもずっと悩まされていたようですね。

「2009年はアメリカでも豚インフルエンザが流行ったんですが、実はその影響でしんどい時期がありました。何かが起きるとぜんそくになってしまうことがあって、他にも精神的、肉体的な疲れにも大きく左右されるんです。気持ちがめげちゃうと病気にかかりやすくなるので、負けないようにはしていたんですけどね。ぜんそくは気管が荒れて息が吸えなくて本当に苦しいんですが、だから水泳をやったり野球をやったり、過酷なところで自分を鍛え上げてきました。ひどい方はスポーツもできないと思いますが、自分は何とかできているし、本当にスポーツはいいなあと思っています」

広島アスリートマガジン1月号は、新井新監督特集第3弾『新井貴浩監督の“全力”所信表明』!新監督を支える選手・コーチ陣インタビューも必見です。