チーム創設から70年を超える歴史の中で、18名の監督がカープを率いてきた。選手不足、資金不足、人気低迷、成績不振……さまざまな困難を跳ね除け、紡がれてきたカープの歴史は、監督たちの歴史と言っても間違いではない。一際輝く名監督たちにご登場願おう。

左から緒方孝市、古葉竹識、石本秀一、三村敏之、マーティ・ブラウン。イラスト:オギリマサホ

◆カープのためにとにかく奔走 石本秀一

 1950年のカープ球団創設時に監督に就任。広島商のエースとして活躍し、新聞記者を経て1936年の日本プロ野球開幕年に大阪タイガースの二代監督として指揮を執った。それから14年後、カープの監督に就任したのはいいが、当時のチームには名の通った選手が白石勝己しかおらず、選手集めに奔走。後に『小さな大投手』と呼ばれることになる、長谷川良平などを加入させ、なんとかチームとしての体裁を形成させたのだ。

 一方でチームの資金繰りは低迷。チーム存続の危機を迎えていた。そこで石本監督自らが街頭に立って、道ゆく人々に募金を呼びかけたり、選手を引き連れて講演会を開いたりして、なんとか資金を調達。球団運営のために、広島中を駆け回った初代監督だった。

◆チーム初のプレイイングマネージャー 白石勝己

 1953年から監督と選手を兼任した二代目監督。とはいえ、初代の石本監督がチームの資金づくりに奔走しなければならなかった状況のため、早くから監督のような役割を任され、チームの指揮を執った。

 全盛期の王貞治に対抗するため、野手全員を極端な右寄りで守らせる『王シフト』を考案したり、1957年に完成する旧広島市民球場の設計に携わったりと、現在でも語り継がれる、革新的な功績を数多く残している。

 1945年の終戦からわずか5年後。原爆投下によって、焼け野原になった街からの復興を目指す広島に誕生したプロ野球団を、復興のシンボルとして多くの人が後押しをした。

 球団創設初年度、開幕3カ月前まで選手が全く集まらないチーム状況、運営資金の不足などといった問題山積みのカープを率いたのは、初代監督石本秀一だった。自らの情熱と人脈とを駆使し奔走。プロ野球団としての体裁をなんとかつくり上げ、開幕に間に合わせた。

 もちろん、球団の資金不足は解消せず、石本は選手を起用した講演会の開催や、樽募金といった手法で、広島の人々と一緒にカープを育て続けてきた。これこそが『カープは市民球団である』と、今でも言われる所以なのだ。

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