各球団スカウトの情報収集の集大成であり、球団の方針による独自性も垣間見られるドラフト会議。カープはこれまで、数々の名スカウトたちが独自の眼力で多くの逸材を発掘してきた。かつてカープのスカウトとして長年活躍してきた故・備前喜夫氏がカープレジェンドたちの獲得秘話を語った、広島アスリートマガジン創刊当時の連載を再編集して掲載する。
◆「頭の良い選手」という評判は知っていたがここまでとは・・
彼がドラフトで指名されたのは平成になる直前の昭和63年の秋、山本浩二監督が最初に監督に就任してすぐのドラフト会議でした。同期入団には江藤智(元広島、巨人など)がいますが、この年のドラフトでは、1位を野村にするか、甲子園でも活躍した谷繁(元中日など)にするかでかなり協議したのを覚えています。
ウチとしては当時正捕手だった達川(光男)の後継者も欲しかったし、内野の要であるショートも欲しかったんです。それで野村の場合には、野球の名門である駒澤大学で主将を務めていたこともあって「将来の指導者の候補生という意味も含めて野村を獲得したらどうか」という意見と、「いや、ウチで手薄なのは捕手だから、谷繁にした方がいい。彼は地元(広島県庄原市東城町)出身だし」という意見で分かれたんです。
二人とも獲れれば一番良かったのですが、両選手ともに他球団も1位指名にする方向のようだったので、どっちかに決めなければならなくなってしまいました。
最終的に野村に決めた理由、それは本人と大学側の協力です。駒大の担当スカウトがリーグ戦や練習をこまめに見に行って当時の太田監督とも常に話をしてきた中で、「お宅の野村君をウチでは将来の幹部候補生としても考えています。だからぜひとも1位で指名したいんです」とお願いして、単独で1位指名することができました。
体は決して大型ではありませんが、大学生の遊撃手という面ではズバ抜けていました。身体能力も素晴らしかったですが、何より「彼は非常に頭がいい。だから内野の要である遊撃手には非常に適している」と後から太田監督に聞いたのを覚えています。
その監督の言葉の意味は、初めて駒大に野村に会いに行った日にとてもよく分かりました。野村を私の前に連れてきた監督は、私との挨拶を済ませた後に「おい野村、この後俺の授業、急用ができたので代わりに頼む」と言ったのです。
太田監督は駒大の教授でもありましたから週に何回か授業も持っていたわけですが、恐らくソフトボールなど体育実習でしょうけど、同じ学生である野村が任されるというのは並大抵のことではありません。しかも初めて会った私の前で普通に頼んでいるのですから、以前から何度も任せていたように思います。いかに野村という選手がしっかりしていて、監督に信頼されているかというのを、改めて強く感じさせられました。
ちなみに彼の弟さんも後に駒澤大で主将を務め、社会人野球を経て現在は高校野球の指導者(後に大学野球の指導者なども務めた)になっていると聞きました。リーダーとなるにふさわしい家庭のしつけもあったかも知れません。
入団した年こそ代走など途中出場が主でしたが、高橋慶彦がロッテに移籍したため2年目からショートのレギュラーポジションに定着して見事盗塁王を獲得しました。翌1991年には1番打者としてリーグ優勝に貢献して、盗塁王とベストナインに輝きました。
そして1995年には初の30本塁打をマーク、3割・30盗塁をカープでは初めて達成したのです。打って、走って、守って、赤ヘル野球を代表するチームリーダーとして活躍し、若手の格好のお手本にもなったのです。 ただ1995年の『トリプル3』については、太田監督もびっくりしておられました。私達スカウトも、俊足・好守に加えてシュアな打撃では評価していましたが、長打力には期待していませんでしたから。しかも野村は高校時代は右打ちで、現在の左打ちには大学進学後転向したように思います。大学時代、そして入団当初も、どこか左打ちがぎこちなく見えたものです。恐らく筋力トレーニング等も取り入れ、あまり大きくない体全体にパワーを付けたのでしょう。並々ならぬ努力があったに違いありません。
【備前喜夫】
1933年10月9日生-2015年9月7日没。広島県出身。旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987~2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。