『10』に代表されるように、サッカー界においても度々話題として取り上げられるのが、各選手の背負う背番号だ。ここではサンフレッチェ広島の選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

ユースから大学を経由し、トップチームに加入した第1号となった茶島雄介。

◆皆実高出身のアタッカーから、キャリア初の1試合2ゴールを挙げたあのMFまで

 今回取り上げる背番号『25』には共通点がある。歴代の選手はすべてサンフレッチェ広島ユース出身、もしくは高校のサッカー部からサンフレッチェに加入してプロ生活をスタートさせており、ほとんどの選手が10代の若いうちに背負っている背番号だ。

 固定背番号制が始まった1997年に初めて25番をつけたMF金本圭太は、1996年に広島皆実高から加入した地元出身のアタッカー。1998年に受け継いだDF川島眞也は、清水商高(静岡)から加入2年目に25番をつけており、同じ清水商高から1998年に加入し、1999年に25番となったDF池端陽介までは、すべてプロ2年目に背番号25を背負った。

 初めてプロ1年目に25番を託されたのは、2000年に東福岡高(福岡)から加入したMF山形恭平。2002年に前橋育英高(群馬)から加入したMF須田剛史、2004年に広島皆実高から加入したDF吉弘充志も1年目から25番で、ここまではすべて高校のサッカー部から加入した選手だ。

 その後しばらく、背番号25はサンフレッチェ広島ユースから昇格した選手の背番号となる。2005年に昇格して25番をつけたのはMF髙柳一誠。ユース所属の高校3年生だった2004年にJリーグデビュー、ヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)ではプロ初ゴールを決めている。中盤の2列目やボランチ、両サイドなど複数のポジションでプレーできる万能性が持ち味で、2010年に13番に変更するまで25番をつけた。

 その2010年に昇格1年目で25番を託されたのは、MF大﨑淳矢。髙柳と同じく、ユース所属の高校3年生だった2009年にJリーグデビュー、ヤマザキナビスコカップでの初得点も記録しており、豊富な運動量と鋭いドリブル突破を武器に、プロ1年目にはリーグ戦初ゴールも記録した。

 3年目の2012年にはリーグ戦12試合に出場しており、そのうちの1試合が第33節、リーグ初制覇を決めたC大阪戦。試合後のセレモニーでキャプテンのFW佐藤寿人が優勝シャーレを掲げるとき、向かって右隣で喜んでおり、優勝メンバーの一員としてクラブ史にその名を刻んでいる。

 空き番号となった2013年を挟み、2014年にから背番号25をつけたMF茶島雄介については後述する。2017年に昇格1年目で25番を背負ったのは、DFイヨハ理(おさむ)ヘンリー。ナイジェリア国籍の父と日本国籍の母の間に生まれ、対人守備の強さと左足から繰り出す正確なパスを武器に評価を高めた。

 姓名の区切りが分かりづらいが、少し前に本人に確認すると「『イヨハ』が苗字(姓)で、『理ヘンリー』が名前(名)です」とのこと。2年目以降は今季まで6シーズン続けて期限付き移籍して他のクラブでプレーしており、成長しての復帰が待たれる。

 2019年にはMF松本大弥が昇格して背番号25をつけた。運動量と力強い右足キックを武器に、同年のJリーグ開幕戦でデビューを飾るなど4試合に出場。3年目から2年間はJ2のクラブに期限付き移籍し、今季サンフレッチェに復帰している。7月の中断期間までのリーグ戦出場は3試合にとどまっており、ここから巻き返していけるか。

 今季の背番号25は、前述した茶島だ。広島市出身で、ユースからの昇格はならなかったが、東京学芸大を経て2014年に加入。ユース出身選手が大学を経て加入した初めてのケースで、流通経済大から2022年に加入したFW満田誠、順天堂大から今季加入したDF山大地など、大学経由でサンフレッチェに戻ってくる選手の先駆けとなった。

 正確な技術と優れた機動力を生かし、加入当初はシャドーやボランチなど中盤の中央でプレーしており、2017年に背番号を『7』に変えた。2018年から千葉に期限付き移籍してサイドでプレーするようになり、2020年の復帰後は再び25番でプレーしている。

 今季はリーグ戦での出場機会こそ限られているが、6月の第16節でプロ初の1試合2得点を決めて勝利に貢献。7月20日で32歳とベテランの域に入ったが、地元出身の生え抜きとして息の長い活躍が期待されている。

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