2023年6月19日に執り行われた北別府学氏の葬儀。そこで弔辞を読んだのが、黄金期を支えた同世代左腕・大野豊氏だ。ともに先発として、そして、先発と抑えとして投手王国を築き上げた大野氏が、『エース』と呼ぶ盟友との思い出を振り返った。
◆妥協をしない姿も印象的。人を寄せ付けないオーラがあった
北別府との思い出を振り返ると、最初の印象は、コントロールが良く、フォームが非常に綺麗な投手だな、というものでした。
当時の北別府は、高卒2年目で若くしてカープの次期エースとして期待されていましたし、その頃からコントロールの良さは際立っていました。投手としての強いこだわりも持っている選手で、とにかく妥協をしない姿も印象的でした。投げる前の準備の段階から人を寄せ付けないようなオーラを出していましたから、常に、そのくらい集中していたのだと思います。周りにいるチームメートの私たちでさえ、練習中は言葉を交わしても、試合開始の時刻が近づいてくるとそばに寄ることができない、声も掛けられない。そんな雰囲気をかもし出していました。
私が入団当時は、北別府が先発、私がリリーフで投げるという場面もよくありました。彼にはかなり迷惑をかけてしまったのではないかと思うのですが、私が勝ちを消してしまった試合でも、彼は決して怒ったり責めたりするようなことはありませんでした。北別府の性格からすると、とにかく一人で投げ抜いて白黒をつけたいタイプでしたから、『途中でマウンドを降りた自分が悪いんだ』と、そういう思いがあったのではないでしょうか。そうした考え方も含めて、本当の投手らしい投手という印象がありました。
一方で、ユニホームを脱いでプライベートでの北別府は、普通の良い「兄ちゃん」という印象でした。若い頃は彼も私も三篠の三省寮で生活をしており、同じ投手の川口和久も交えた3人で、釣りに行くこともありました。
私が先発で投げるようになってからは、北別府も川口もチーム内ではライバルのような立場になりましたが、私としては、競い合う相手というよりも、『いかに彼らの持つ良いものを盗んで吸収しようかと』いうことをいつも考えていました。川口は川口でスタミナのある投手でしたから、参考になる面もたくさんあったのです。
コントロールの北別府、スタミナの川口。彼らは二人とも、私の持っていない良いものをそれぞれ持っている選手たちだったのです。
大野 豊
1955年8月30日生、島根県出身。1977年に出雲市信用組合からテスト入団を経てカープに入団。中継ぎとして台頭し、1979〜1980年はカープの2年連続日本一に貢献した。球界を代表する左腕として活躍し、1988年には最優秀防御率に輝き、沢村賞を受賞。現役引退後は、1999年、2010〜2012年にカープで投手コーチを務めた。通算148勝100敗138セーブ。現在は野球解説者として活動中。