2005年から12年間をサンフレッチェ広島で過ごし、数々のゴールとタイトル、あふれるクラブ愛でいまも多くの人々に愛されている佐藤寿人氏。共に紫のユニホームを着た数々のチームメートがピッチ上で見せた才能、意外な素顔を振り返っていく連載企画。

 今回は、2009年から2011年まで広島でプレーした、李忠成との思い出を振り返る。(全2回・前編)

今シーズン限りでの引退を発表した李忠成。現役最終年は、アルビレックス新潟シンガポールでプレーした。

◆加入2年目も控えスタート。苦しんでいる姿を見ていた

 チュンソン(李忠成)の名前を最初に知ったのは、FC東京のアカデミー(育成組織)で活躍していたときです。その後も柏レイソルや年代別代表でのプレーを見て、気持ちのこもったプレーをする、いいストライカーだと思っていました。

 チュンソンが2009年の途中にサンフレッチェに加入したことで、僕たちはチームメイトになりました。ほとんど公になっていませんが、実はこの年、僕は右ヒザに慢性的な痛みを抱えていたんです。軟骨を痛めていて、毎朝起きた後に自宅の階段を下りるときには激しい痛みがあり、試合後は毎回、ヒアルロン酸の注射を打っていました。何とかリーグ戦全試合に出場できたものの、もうプレーできなくなる可能性もあると考えていたくらいです。それがきっかけとなり、FWの補強でチュンソンが加入したので、僕の負傷がなければ、サンフレッチェには来ていなかったかもしれません。

 一緒にプレーしてみると、ゴールを決めるだけでなく、前線で基点になるプレーもできる。器用でオールマイティーなので、控えに甘んじるような選手ではないと感じましたが、1年目は途中出場のみで無得点に終わりました。ただ、当時は23歳で、まだまだ成長できる時期です。僕もミシャ(ペトロヴィッチ監督)の下でプレーして、多くのことを吸収して成長できたので、チュンソンも同じように成長するだろうと思っていました。

 ただ、翌2010年もチュンソンは開幕から控えで、途中出場が続きます。戦力になれていないわけではなかったですが、2年目になってもミシャのサッカーにフィットし切れていない感じがあり、苦しんでいる姿を見ていました。

 この年はW杯が開催されたので、リーグ戦が5月から約2カ月間の中断期間に入り、僕は選手数人と一緒にグアムで自主トレを行いました。そこでチュンソンを誘ったら「行きます」と。ポジションを争う選手との自主トレは断るかと思いきや、何とか状況を変えたいという思いがあったのだと思います。

 加入当初からミシャのサッカーを体現するために、いろいろコミュニケーションを取っていましたが、このときのグアムでは、それまで以上にたくさん話をしました。僕の右ヒザの痛みはなくなっていましたが、「いつ俺がケガをして、チュンソンが先発で出ることになるか分からないぞ」とハッパもかけていて、のちにそれが現実となります。

《プロフィール》

り・ただなり(い・ちゅんそん)
1985年12月19日生、東京都出身
ポジション・FW
サンフレッチェ広島/2009年〜2011年

 FC東京U-18から2004年にトップチームに昇格。柏レイソルを経て2009年途中にサンフレッチェに加入し、2010年途中から得点源として活躍した。2012年以降はイングランドのクラブや浦和レッズなどで活躍。2022年からアルビレックス新潟シンガポールでプレーしている。2023年9月、今シーズン限りでの現役引退を発表した。