2005年から12年間をサンフレッチェ広島で過ごし、数々のゴールとタイトル、あふれるクラブ愛でいまも多くの人々に愛されている佐藤寿人氏。共に紫のユニホームを着た数々のチームメートがピッチ上で見せた才能、意外な素顔を振り返っていく連載企画。

 今回は、2009年から2011年まで広島でプレーした、李忠成との思い出を振り返る。(全2回・後編)

ストライカーとして、ともにサンフレッチェ広島をけん引した李忠成(左)と佐藤寿人氏(右)

◆初先発のチャンスを生かす。日本代表でも優勝に貢献

 2010年9月のナビスコカップ(現ルヴァン杯)で僕は右肩を痛め、欠場することになりました。次のリーグ戦はマサ(山﨑雅人)が代わりに先発しましたが、マサも翌節から欠場。ここでチュンソン(李忠成)が加入後初めて先発したのです。そして、このチャンスを見事に生かしました。その試合で加入後初得点を決めたのを機に、5試合連続ゴール。僕が終盤に復帰して一緒に先発するようになってからも勢いは衰えず、最終節まで12試合連続で先発して11得点を挙げる大爆発でした。

 チュンソンは同じ年の9月の天皇杯で先発したとき、チーム全体の出来も悪かったのですが、怒ったミシャにハーフタイムで交代させられています。監督の評価は一番下まで落ちたな、と周りも感じるほどの状況からチャンスを生かし、しかも結果を出し続けた。グアムで話していた通りになって、やはり力がある選手なんだと感じさせられました。

 シーズン終了後には日本代表に初選出されてアジア杯に臨み、決勝で見事なゴールを決めて優勝に貢献しています。僕たちは沖縄キャンプ中でライブでは見られず、翌朝みんなで驚きました。ここでも自分の力でチャンスを生かし、結果を出したのは素晴らしかったです。

 2011年は一緒に先発する形が定まり、開幕から多くのゴールを決めるチュンソンに、僕は途中から「得点王を取らせたい」と発信するようになりました。チュンソンは「寿人さん、それは本心ですか?」と笑っていましたが、チームメートとして本当にそういう思いがあり、PKもチュンソンが蹴るべきだと伝えていて、実際に譲っていました。最終的にチュンソンは得点ランク3位タイの15得点を挙げ、僕も11得点で、そろって2ケタ得点を挙げることができました。

 サンフレッチェでプレーしたのは2年半ですが、多くのゴールを決めた上に、マキ(槙野智章)や(森脇)良太とのゴールパフォーマンスといった面でも、チュンソンがクラブに残してくれたものは大きかったと思います。

 浦和、横浜FM、京都でプレーしたのち、2022年からアルビレックス新潟シンガポールでプレーしています。1年目から10得点を決めてリーグ優勝に貢献し、2年目の今年も8月に連覇を達成しました。37歳になっても結果を出しているところがプロとしての素晴らしさで、あれだけの経験を持つ選手がいることは、クラブにとっても大きいはずです。

 チュンソンは僕にとって、ゴールを決める責任を思い出させてくれた存在です。2011年、僕は彼がゴールを決めているからと、責任を背負うことから逃げていました。でもチュンソンが移籍し、2012年は自分自身がゴールを決めることにもう一度、目を向けていかなければいけないという気持ちになった。それが僕の得点王と、サンフレッチェのリーグ初優勝につながったのだと思います。

《プロフィール》
り・ただなり(い・ちゅんそん)
1985年12月19日生、東京都出身
ポジション・FW
サンフレッチェ広島/2009年〜2011年

 FC東京U-18から2004年にトップチームに昇格。柏レイソルを経て2009年途中にサンフレッチェに加入し、2010年途中から得点源として活躍した。2012年以降はイングランドのクラブや浦和レッズなどで活躍。2022年からアルビレックス新潟シンガポールでプレーしている。2023年9月、今シーズン限りでの現役引退を発表した。