Jリーグ創設以来30年間、ホームスタジアムとしてサンフレッチェを見守り続けてきたエディオンスタジアム広島。ビッグアーチと呼ばれた時代から、ここでは多くの記録と記憶が誕生した。ラストイヤーを迎えたエディオンスタジアム。そこに刻まれた紫の足跡を、関係者たちの言葉で振り返っていく。

 連載第2回は、 スタジアムDJ・貢藤十六さんが登場。 でスタジアム数々のゴールをアナウンスしてきた貢藤さんが、DJの仕事の裏側、そして、エディオンスタジアム広島で過ごした13年間を振り返る。

スタジアムDJとして、13年にわたってサンフレッチェ広島の試合をアナウンス続けてきた貢藤さん。

◆震災後からエディスタDJに就任。チームと歩んだ13年

ー貢藤さんがエディオンスタジアム広島(以下、エディスタ)のスタジアムDJに就任されたのは、いつからでしょうか。

「2011年の震災の後からです。3月11日の震災後、Jリーグの試合が一時中断したのですが、その中断明けのチャリティマッチから担当させていただきました。僕は大阪府出身ですが、仕事でサンフレッチェと関わるようになったのは、広島FMで2009年の4月に始まった『サンフレッチェ ラジオ・サポーターズクラブGOA〜L』という番組からです。スポーツイベントやゲレンデDJ、アリーナDJの仕事をしたことはありましたが、スタジアムDJは経験がありませんでした。ただ、仲良くさせていただいているDJ仲間にはスタジアムDJをしている方も何人かいたので、そうした方たちと連絡を取り合い、『こういう演出はどうですか』と情報交換をしたりしながら試行錯誤を続けてきました」

ースタジアムDJ同士の、横のつながりというものもあるのですね。貢藤さんご自身は、エディスタでDJとして10年以上サンフレッチェを見守り続けています。最も印象に残っているシーンを教えてください。

「スタジアムDJに就任して、あと4試合で13年目のシーズンが終わります。本当にいろいろなことのあった13年間でしたが、やはり忘れられないのは2012年の初優勝と、2015年のチャンピオンシップ優勝ですね。いずれもホームゲームで、なかでもスタジアムDJになって2年目、2012年の初優勝は特に心に残っています。まさか僕自身がこんな瞬間に立ち会うとは思ってもいませんでしたし、古くからチームを追いかけている記者の方やファンの方、選手、OBのみなさんから優勝に至るまでの苦労や経験談を聞いていたので、こんなに短い時間しか携わっていない自分が、この瞬間を経験して良いのだろうか……という気持ちもありました」

ー複雑な思いもお持ちだったのですね。とはいえ優勝の瞬間は、アナウンスにも力が入ってしまうものですか?

「先日、2012年の優勝が決まったときの自分の声を聞く機会があったのですが、周りの方からは『このときの声、ちょっと違うよね。だいぶ高いよね』と言われました(笑)。ただ、僕の仕事はマイクを通じて『事実をお伝えすること』です。優勝が決まった瞬間は頭が真っ白になりましたが、スタジアムDJはお客さんになってはいけません。もちろん気持ちは高ぶりますが、客観的に、自分は次に何をするのか、どんな文言が必要なのかということを考えていたように思います。冷静さを保ちつつ、優勝の雰囲気を盛り上げるようにテンションもあげつつ……忙しいというか、良い意味で難しい日だったことを覚えています。優勝セレモニーも終わり、選手たちもスタジアムを引き上げた後、僕たちスタッフも『せっかくなのでお祝いをしよう』ということになりました。みんなと食事をしながら、ちゃんと滞りなく終えられたことを噛み締めて、そこで初めてほっとしました。そのあと家に帰ってテレビで優勝特番を見ているうちに、『ああ、優勝したんだ。夢じゃなかったんだな』という気持ちが湧いてきましたね」

《プロフィール》
貢藤十六 くどう・とうろく
1974年7月16日生、大阪府出身
2003年からDJのキャリアをスタート。2011年にサンフレッチェ広島のスタジアムDJに就任し、2012年の初優勝、2015年の優勝を見守った。広島FMで 『サンフレッチェ・ラジオ・サポーターズクラブ 貢藤十六のGOA〜L』のパーソナリティを務めるほか、MC・ナレーターとしても活躍している。

広島アスリートマガジン10月号は、「新井カープの結束力」シーズン終盤に差し掛かり、監督初年度を堂林翔太選手と藤井彰人コーチのインタビューで振り返ります。またサンフレッチェ広島からは、好評連載中の「エディオンスタジアム物語」もお届けします。